8日に、山梨県立美術館へ行ってきた。ずっと「行きたい!」と言い続けてきたけど、前回帰省したときは身延線が復旧してなくて……。9月初めに行ったワシントンナショナルギャラリー展(国立新美術館)以来の絵画展。ついにミレーの絵がたくさん見れる! と思うだけでわくわく。印象派への足取りを示すための数点をぱらぱら目にすることはあれど、バルビゾン派の、中でもミレーの作品に焦点を置いた展示はいままで見たことがなかった。
清水駅から約3時間。途中、身延線が途切れていてJR代行バスに乗り換える。まだ台風の爪痕は残っているようだ。でもそんなイレギュラーがあっても、今回の連れ立ちは両親プラス兄だから、変な気がねはしなくていい。友だちの前でも自分は割と気楽にしているのだけれど、やっぱり乗り換えや移動時間で負荷が大きいと、どうしても誘った方は気を使ってしまう。それに、行き先は美術館。「絵、見にいこ」なんて行ってついてきてくれる友だちは年齢的にも(?)そう多くないし、ゆっくりマイペースに見られるかどうかはまた疑問だ。やっぱり、美術館と買い物はマイペースが一番。
さてさて、肝心の作品の方を。
簡潔に言えば、やっぱり、すごかった。
順路に沿ってゆっくりと流れていくスライドは、どれも一瞬ではっとさせられる何かを持っているようで、ひとでは見ることができない世界をキャンバスの窓から覗き見しているような、いたずらっぽい優越感に満たされる。絵の中の人物も、木や鳥や空気も、こっちの存在をこれっぽっちも意識していない。生身の体がある以上この目では感じることができない光景が、切り取られているように感じた。どれだけ技術が発展しようとも、写真では決して勝ることのできない絵画の価値。そのひとつは、ここにあるのかもしれない。被写体たちに、見られている、撮られている、という意識がまったくないのだ。手の届きそうなほど近くに見える人ですら、こちらに気づかず自然体の日常を送っている。一生見ることの叶わない、本当の自然体の美しさ。
だからかもしれない。ミレーの作品の前に立とうとするとき、思わず声をひそめたくなる。しー、っと人差し指を口元に立てて、心の中の自分が注意する。足音を立てずに近づいて、はっとする。自分が少しでも音をたてたら、あの木陰に佇む人はこちらの存在に気づいてしまうだろう。顔を上げて、きょとんとした顔で見つめられれば、目の前に広がるこの完璧なまでの自然は、一瞬で壊れてしまうから。繊細で、奇跡的な自然体の美しさ。それが、ミレーの絵の魅力なのだと思った。
他のバルビゾン派の方々の作品も、とても素敵だった。特に、(テオドール・)ルソーの絵なんかは、光を活かすための暗トーンの使い方とかミレーと似通ったところがあるなー、と感じた。ただ、やはり声をひそめたくなるまでの奇跡的な何かは、ミレーの絵にこそ感じるものであるのだと思う。壊したくない静謐な空気感がある。だから、やっぱりミレーが自分は好きだ。
……美術に通じた人が見たら、何て言うんだろう? いろいろ書いておきながら、正直自分は見る目も(たぶん)なければ、知識だって全然ないから、ちょっと気になる。でも、きっと突き詰めるのでなければ、自分がどう感じるかが一番大事なのだと思う。から、いいや(笑)(……ごめんなさい、専門家さんたち)
奇跡的なまでの完璧さ。ああ、無駄がないな、という感覚。小説を書くためにジャンルを超えた様々な優れた表現物に触れるようになってから、気付いたことがある。優れた作品には、たとえそれが絵画であっても、小説であっても、映画であっても、この感覚を覚えさせる何かがある。
全部をひとつの箱に入れてしまうような考え方はちょっとリスキーではある。一見蛇足のような文章やラインが作品に深い味わいを加えていることだって多い。だけど、それすらも密かに計算されつくされた作品が、確かにあるのだ。なに喰わぬ顔をしているくせに、その裏で自慢げに笑っているような。作品自体に「どうだ、すごいだろ」と自慢されているような。そんな作品と、そんな感覚。
あー、オルセー美術館に行きたい、と思った。ミレーの所蔵が豊富で、何よりも「春」がある。自分がミレーを好きになったきっかけの絵。山梨県立美術館に行って、売店の画集をぱらぱら捲りながら、改めて生と写真の大きな違いを感じたから、余計に行きたくなってしまった。
でも、取り敢えずは村内美術館かな。そして、その前に1月18日~の、消費者のためになった広告コンクール展(無料!)。仕事も、夢も、趣味も。すべてが相互にいい影響を与えあってるのが、すごくありがたいことだなーと思った。
清水駅から約3時間。途中、身延線が途切れていてJR代行バスに乗り換える。まだ台風の爪痕は残っているようだ。でもそんなイレギュラーがあっても、今回の連れ立ちは両親プラス兄だから、変な気がねはしなくていい。友だちの前でも自分は割と気楽にしているのだけれど、やっぱり乗り換えや移動時間で負荷が大きいと、どうしても誘った方は気を使ってしまう。それに、行き先は美術館。「絵、見にいこ」なんて行ってついてきてくれる友だちは年齢的にも(?)そう多くないし、ゆっくりマイペースに見られるかどうかはまた疑問だ。やっぱり、美術館と買い物はマイペースが一番。
さてさて、肝心の作品の方を。
簡潔に言えば、やっぱり、すごかった。
順路に沿ってゆっくりと流れていくスライドは、どれも一瞬ではっとさせられる何かを持っているようで、ひとでは見ることができない世界をキャンバスの窓から覗き見しているような、いたずらっぽい優越感に満たされる。絵の中の人物も、木や鳥や空気も、こっちの存在をこれっぽっちも意識していない。生身の体がある以上この目では感じることができない光景が、切り取られているように感じた。どれだけ技術が発展しようとも、写真では決して勝ることのできない絵画の価値。そのひとつは、ここにあるのかもしれない。被写体たちに、見られている、撮られている、という意識がまったくないのだ。手の届きそうなほど近くに見える人ですら、こちらに気づかず自然体の日常を送っている。一生見ることの叶わない、本当の自然体の美しさ。
だからかもしれない。ミレーの作品の前に立とうとするとき、思わず声をひそめたくなる。しー、っと人差し指を口元に立てて、心の中の自分が注意する。足音を立てずに近づいて、はっとする。自分が少しでも音をたてたら、あの木陰に佇む人はこちらの存在に気づいてしまうだろう。顔を上げて、きょとんとした顔で見つめられれば、目の前に広がるこの完璧なまでの自然は、一瞬で壊れてしまうから。繊細で、奇跡的な自然体の美しさ。それが、ミレーの絵の魅力なのだと思った。
他のバルビゾン派の方々の作品も、とても素敵だった。特に、(テオドール・)ルソーの絵なんかは、光を活かすための暗トーンの使い方とかミレーと似通ったところがあるなー、と感じた。ただ、やはり声をひそめたくなるまでの奇跡的な何かは、ミレーの絵にこそ感じるものであるのだと思う。壊したくない静謐な空気感がある。だから、やっぱりミレーが自分は好きだ。
……美術に通じた人が見たら、何て言うんだろう? いろいろ書いておきながら、正直自分は見る目も(たぶん)なければ、知識だって全然ないから、ちょっと気になる。でも、きっと突き詰めるのでなければ、自分がどう感じるかが一番大事なのだと思う。から、いいや(笑)(……ごめんなさい、専門家さんたち)
奇跡的なまでの完璧さ。ああ、無駄がないな、という感覚。小説を書くためにジャンルを超えた様々な優れた表現物に触れるようになってから、気付いたことがある。優れた作品には、たとえそれが絵画であっても、小説であっても、映画であっても、この感覚を覚えさせる何かがある。
全部をひとつの箱に入れてしまうような考え方はちょっとリスキーではある。一見蛇足のような文章やラインが作品に深い味わいを加えていることだって多い。だけど、それすらも密かに計算されつくされた作品が、確かにあるのだ。なに喰わぬ顔をしているくせに、その裏で自慢げに笑っているような。作品自体に「どうだ、すごいだろ」と自慢されているような。そんな作品と、そんな感覚。
あー、オルセー美術館に行きたい、と思った。ミレーの所蔵が豊富で、何よりも「春」がある。自分がミレーを好きになったきっかけの絵。山梨県立美術館に行って、売店の画集をぱらぱら捲りながら、改めて生と写真の大きな違いを感じたから、余計に行きたくなってしまった。
でも、取り敢えずは村内美術館かな。そして、その前に1月18日~の、消費者のためになった広告コンクール展(無料!)。仕事も、夢も、趣味も。すべてが相互にいい影響を与えあってるのが、すごくありがたいことだなーと思った。