伊藤博文が見ていたもの | 大自由の翼のブログ

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今夜も令和哲学カフェを視聴しました。



火曜日は明治維新からしばらく経過して日清戦争までの期間にフォーカスを当てています。


今回は、伊藤博文を取り上げました。


伊藤博文は、中国🇨🇳の清がアヘン戦争でイギリス🇬🇧に敗れて、世界に衝撃を与えた頃に生まれました。

元々は農家に生まれたのですが、両親が萩に移り住み、運良く伊藤博文の父親が下級武士に出世できたことが、伊藤博文の人生を大きく開くことになります。


成長するにつれて、ペリーの黒船来航などにより尊王攘夷の思想を持ち始めます。そんな中、周防湾の警備をするようになり、その時に松下村塾に通うようになるようです。

吉田松陰に可愛がられていたようで、当時の伊藤博文は才能はなかったが、性格的に素直さがあり、政治家になる可能性を秘めていると松陰に見抜かれていたようです。

やがて、22際の時に長州五傑としてイギリス🇬🇧に留学して、西洋と日本との格差を思い知り、尊王攘夷から開国派に変わります。

そんな中で、長州が海外4カ国との戦争に敗れてその講和条約の調整役を任されるなどしました。


やがて、明治政府に入り、岩倉使節団として海外を渡り歩く中で、内治優先論派として、武士の不満を発散させることを優先する征韓論派と対立するもそれに打ち勝つために交渉したり、西郷隆盛、大久保利道、木戸孝允が亡くなっていく中で、内部卿となり、政権を動かすようになり、国会建設や憲法制定に奔走し、内閣総理大臣や枢密院長初代朝鮮総監になったりとかなりの活躍をしていきます。


そんな話の流れから、伊藤博文が何を見ていたのか?についてディスカッションしました。


私はプレゼンを聞いていて、伊藤博文は武士道を継承しつつも、刀を含めた武器を使わない国にすることを目指すイメージがきました。

世界は植民地の争奪戦で各地で戦争が起こり、日本もそれに対抗するように富国強兵をしていったけど、伊藤博文は、対話やコミュニケーションを重要視していたようです。

また、ネットなどでは、女好きなどの話も出ていたようですが、戦争を嫌い平和を愛する精神があったこと、また女性に優しくするという器があったのではないかと感じました。


明治時代は、男性性武士道真っ盛りの時代であり、そんな中、伊藤博文は女性性を持っていたのだと思いました。

それは外交にも現れていて、日清戦争で軍事的勝利を収めるために北京を制圧する寸前に、外交をして中国🇨🇳に話し合いで勝利して完全に勝利するということをやった話を聞いてとても賢いと感じました。


そんな伊藤博文がいなかったら、明治維新は成功していなかったのではないか?と思いました。


令和哲学者ノジェスさんも、伊藤博文はとても賢く、女性性があった人だったけど、彼が暗殺されてその路線を引き継ぐ人がいなかったことが、日本が軍国主義に走る要因になったのは惜しかったよねという話をされました。


同時にそんな伊藤博文の遺志を私たちが引き継ぐことはすごく大切だと感じました。