今夜も令和哲学カフェをアーカイブで視聴しました。
金曜日は山本常朝の葉隠を取り上げています。
眠い目を擦りながら💤視聴したので、正確な表現ではないかもですが、ツラツラ書いていきます。
今回は、武士の観念である、戦闘者の名誉と朱子学の倫理観からアプローチしていきました。
この2つの観念の間を研ぎ澄ませると、忠義が生まれ死に狂いの状態になりますが、そこから現実世界でポジションに入って、ミッションを全うするのがSAMURAIですが、そのポジションの中で一番上にいるのがSAMURAIであると。従い、SAMURAIは自己決断と自己救済することができる絶対的主導権を持っている。
なので、SAMURAIはいつでも環境に支配されるのではなく、震源地となって社会に衝撃を与えることができるというお話でした。
それはそれでカッコよかったのですが、そこからドゥルーズのリトルネロの話が出てきて、SAMURAIは日々の鍛錬で勇気を蓄積して、そしてその鍛錬があって、狂気、死に狂いに行き、恐怖がない状態になると。
例えるなら、子供が暗い夜道で最初は恐怖を感じるけど、歌を歌っているうちに恐怖感が薄れて無事に家に帰れるようなものだと。
この話を聞いて、毎日のチャレンジの積み重ねがやがて悟りの道に行くと言われているような気がしましたし、またドゥルーズの差異の反復をした先に、死に狂いや狂気があるという解析もできるかなと感じました。形状記憶+αにもつながるかなと。
令和哲学者ノジェスさんの解析では、今ここ新しい自分を蓄積する。変化は新しいものの蓄積だと。ささいなことを大事にすること。それは数学のエネルギーの微分を超えた心の微分に相当する。
心の微分をした瞬間に全部がつながって大きいも小さいもないイメージと微分は時間がゼロになるのでイメージ不可能なとんでもないスピードのイメージがきました。
今回の話を聞いて、ささいなこと大事になることの大切さを感じるとともに、それができれば常に歓喜になると感じました。