人倫と国家 | 大自由の翼のブログ

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今夜も令和哲学カフェに参加しました。

【3/28〜4/1】歴史の終焉と世界平和の実現に向けて~NextRenaissance地球市民会議1周年記念~ | 令和哲学カフェ

https://reiwaphilosophy.com/

今回はヘーゲルを取り上げました。

ディスカッションに入る前に、今回ファシリテーターをしている澤田裕子さん(以降ふみかさん)や出演者の紹介がありました。

ふみかさんの子供の頃の家庭環境の話がありました。母親が入院して父親が仕事。兄に面倒を見てもらっていたけど、兄が思春期になってふみかさんを女として見るようになり👀、それがショックで、女性として無化されてしまうような感覚を持ったそうです。
子供の頃教会に通っていたこともあり、その経験に罪悪感を持ってしまったようです。
無意識エンジンとして、自分が頑張っても頑張っても無力で人の要求に従うしかない汚い惨めな人間なんだというブレーキとしっかり主義主張できるようになってみんなに認められる潔白な人間になるぞというアクセルを持っていたそうですが、子供の頃の体験経験が影響していると感じました。

出演者も昨日話のあったカントの自然状態と合わせて紹介したのですが、できるできないに拘っていたり、自分が提案したことは常に否定されるなどそれぞれ共感できる話でした。

ヘーゲルのプレゼンでは、絶対精神や正反合、人倫、国家について話がありました。

ヘーゲルの哲学で絶対精神は切っても切り離せないものですが、カントが令和哲学で言う瓶鳥の外を物自体としてそれについてあまり語らなかったことに対して、ヘーゲルは瓶鳥の外を絶対精神として定義して、あらゆる現象や歴史は絶対精神の表れであり、それが成り立つ法則を提示しました。

それが正反合(弁証法)、ある事象(正)とそれに反する事象(反)が対立摩擦することで、それが統合されて次元の違うもの(合)が生まれるする考えで、それの行き着く先が絶対精神だという流れです。

絶対精神を表現するのが人間。

ヘーゲルは、真の自由の共同体を人倫と定義しましたが、カントの道徳だけではそれを実現できない、道徳の相反する法律があることで人倫が生まれるとしました。
この延長線上で、愛を重要視する家族と個人を尊重する市民社会が融合したものが国家であるとしました。

話を聞いていて絶対精神の定義は理解しましたが、その絶対精神に到達するまでにどうすればいいのかな?と感じましたし、カントの道徳の不足を取り上げていましたが、カントの認識主体と認識形式が出会って認識対象が生まれるというのが本当は物自体から生まれていることがベースになっているのをヘーゲルは理解していたのかなと疑問に思いました。

ディスカッションでは、ヘーゲルのいう真の自由な共同体を創造するために必要な要素は何か?について話しました。

まずはヘーゲルのいう絶対精神を人間が持つこと、そして共同体と個人の意志が=で繋がり、絶対精神を実行する者がアバターであり、遊び感覚を持てるようになること、その中で自分の中でそれぞれ定言命法を持ち実行できるようになり、絶対平等になるというまとめになりました。

令和哲学を学んでいる人たちだからこそまとめられる話だと感じました。

カントのいう共和国とヘーゲルのいう国家はどう違うのかな?という疑問を持ちました。