あの日僕らが信じたもの 映画『パンドラ ザ・イエロー・モンキー』 | あなたの夜を埋める物

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20131004




PUNCH DRUNKARD/THE YELLOW MONKEY




それよりもこの愛を君に見せたい ごらんよこれが裸のボクサー
パンチパンチドランカー



9月28日限定上映のイエローモンキーのツアードキュメンタリー映画『パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE』
を見に行ってきた。※一部地域をのぞく。
当初見るつもりは無かったのだが、香川での上映が追加されたことと、友人が一緒に連れて行ってくれることになり、じゃあ行こうと。

音楽雑誌のインタビューなどは購入してよく読んでいたが、ミュージシャンの私生活情報に関しては歌詞や音で構築された世界以外のイメージがついて歌そのものを楽しめなくなるのが嫌で、吉井和哉の自伝も読まないようにしてきた。
しかし「現在のメンバーの姿が見られる」こと、そして自分の中ではっきりさせておきたいことがあったので、見ることにした。

ファンにとって、私にとって、パンチドランカーツアーというのは「バンドの寿命を縮めたツアー」という認識が強く、一緒に行ってくれた友人も私も映画への“不安”の2文字が拭えずにいた。
自分たちが知っている事実よりもっと辛い事実が明かされること、過酷なスケジュールの中で疲弊していくメンバーを見ること、15年間公表されなかった理由…それが何なのか?
思っていたより埋まっていく客席を見ながら、照明が落ちるまで頭の中は不安と期待でぐるぐるしていた。



※注意※
ここからの記事は、1回こっきりの視聴なので台詞などは「こういう意味のことを話したんだな」程度で読んで頂けるとありがたいです。シーンの順序などもあやしいです。40手前の記憶力ではこれが限界でした(哀)
勿論ネタバレ満載なので、これから映画を観る方、12月発売のDVDを楽しみにしている方は注意してください。





『パンドラ』は『太陽が燃えている』『JAM』でのブレイクにより、アリーナクラスのホールを埋めるロックバンドに成長したイエローモンキーが、1年間で113本、“3日に1本、日本のどこかでライヴをやっている”計算になるパンチドランカーツアーを98~99年当時の映像と、今の当時の関係者によるインタビュー、そしてメンバーの映像により構成されたドキュメンタリー映画である。

映画はアルバム『パンチドランカー』レコーディング風景から始まる。

海外スタジオでのやりとり、ジャケット撮影。そして1998年1月7日の読売新聞全面広告で113本ライヴ全日程の発表。
(映画内で「元旦の朝日新聞」と言っているのは間違い。「記憶違いもドキュメント」として意図的にそのままにしている※パンフレットより)

「CD売り上げが減少」 「自殺者増加」
「ノストラダムスの予言が当たらなかった」 「ミレニアム問題」

ツアープレライヴ『あしたのショー』での『SUCK OF LIFE』のロビンとエマの絡み映像のバックにそんな不穏な単語が流れる2000目前1998~99年のニュース。

「100本じゃなくて113じゃねえか!」と吉井和哉につっこまれたり、メンバーに見せるボード?に「あと100何本って書くのやめて」とやんわり注意された話。
映画は当時のライヴ映像や移動中、楽屋シーンはカラーで、ツアーに携わったスタッフのインタビュー、そして現在のイエローモンキーメンバー4人の映像はモノクロ。この3つを織り交ぜつつ、映画は進む。

2013年のメンバーはボーリングをしていた。
外見はバンドの頃とあまり変わらない、ヒーセなどは特に変わらなさ過ぎて驚く。

吉井→ストライク、エマ→ガーター。
次のシーンでエマは子供用のボーリングの球をすべらせる滑り台を使う、なのにガーター。
「ちゃんとあわせないとダメなんだよ」とツッコまれ笑うエマ、いや、エマちゃんに萌えすぎて思わず口を手で押さえていたのは秘密だ。
笑う悪魔は今も健在だった…こんなかわいい48歳なんて卑怯すぎる…!(メンバーの中でもギターの菊地英昭=エマちゃんが大好きなのでこれだけは書き残しておきたかったですスミマセン)

2013年のメンバーが聞く。
「なぜ113本ツアーをやったのか?」

大森社長「外タレってライヴたくさんやるでしょ?」

ざっくり要約すると「外タレをめざしていた」「外国のロックバンドみたいなことをやりたかった」これ以外の理由も勿論あるに違いないだろうが(いや、あってほしい)、こんな単純明快な動機だったとは…。
そのおかげでバンドの寿命が縮まったのか…まさに苦笑するしかない事実であった。

「パンチドランカーツアーでいくら儲かったの?」という話になり再度呼び出される大森社長。
電卓片手に「チケット代×本数……約40億円、それにグッズ代、ファンクラブ…」とメンバーも一緒になって掛け算しつつ出た合計金額は約100億円。

吉井「俺、40億も貰ってねえぞ」
エマ「なんで自分だけもらおうとするんだよ(笑)」

移動の合間の食事風景、田舎の寂れた繁華街での写真撮影の合間で看板やシャッターで遊ぶロビンとヒーセ、開演前にカメラをみつけて笑顔で覗き込んだり、膝や脚のストレッチをするエマ、アニー。
ファンが見てきた三十路ロッカーのほのぼのとした仲のよいひとコマ。

しかし北海道で写真撮影をしていたフォトグラファー有賀氏は言う。

有賀「吉井さんの表情が変わっていた。何か違うんじゃないか?っていう…」

北海道公演というとツアー9本目、前半も前半である。
この時からすでに113本への危惧が生まれていたのか…と。

話はツアーの1年前の夏にさかのぼる。フジロックフェスティバル。
世界のロックバンドの大御所が揃う面子の中に放り込まれたイエローモンキー。
海外のバンドとのライヴでの音の作りの違いや悪天候、プレッシャーの中、大成功とは言えない結果に終わる。
終了後、控え室でメンバーたちが上半身裸になって「Foo Fighters盛り上がってる~」などと盛り上がる中、シャツも脱がず、会話に加わることなくソファーに身を沈める吉井和哉。

あんな険しい表情の吉井和哉をはじめて見た。

この頃から「所詮日本のロックは外国のロックに勝てないのか?」という重い課題をひとり抱え込んでいたのかもしれない。


夏の海外ライヴが終わり、またホールツアーが始まる頃、スタッフやメンバーの『家族』にも影響が出ていた。
春にはじまり夏の海外ライヴ、そして9月に入っても休み無くツアーは続く。多くのスタッフが何ヶ月も家に帰れない。
それはメンバー、吉井和哉も例外ではなく、奥さんが精神的にまいってしまい、ツアーに同行することに。

「奥さんの面倒は見るから、吉井はライヴに集中して欲しい」

新幹線移動時はメンバーとは別の車両に奥さんとツアーディレクター倉茂氏が乗り、リハーサルやライヴ中は大森社長がそばにいて、ライヴが終わったら吉井さんに帰すという、極めて異様なツアーとなっていた。

吉井「でもあの頃俺、いいMCしてたよ?とんちの効いた(笑)」

と当時を振り返って話していたが、誰もがツアー以外の隙間の無い、過酷な日々の中で、自分のみならず身内までもが世話をかけてしまっているというのは、相当なストレスだっただろう。

そして9月の香川公演、吉井和哉はついに倒れてしまう。

ライヴを終え、舞台袖にはけた2、3歩のところでスタッフに覆いかぶさり、側のソファーに倒れこんだ。
「ただ休んでいるかもしれない、けれど…」と誰もが声をかけられない中、最初に駆け寄ったのはアニーだった。

アニー「(ライヴ中)「大丈夫?」って聞くと「大丈夫」って返ってくる、けれどあの日は「大丈夫」って言わなかった」

倉茂「中止を覚悟した。するしかないと。しかし吉井はやると言った」

当時、音楽雑誌などでツアー中に倒れて病院に運ばれた話を知ってから、「多分香川公演1日目の話だな」と私はずっと思っていた。

1日目と2日目の“差”を実際に会場で見ていたからである。

けれど1日目に歌詞をトチったとか声が出ていなかったとか歌や演奏がおかしかったという事は全く無かった。あったとしても“イエローモンキーのライヴ”というだけで当時の自分は十分に楽しめたのだろう。
ただMCが殆ど無かった事と、その時の吉井和哉の話し声や曲と曲の間のステージ上の“何か”が違うなぁ…と感じていた。
それに対し、2日目は1日目よりMCもあったし、全体的に力強さがあった。
勝手に推測するに、おそらく点滴とか打って無理やり体力回復させてたんだろうなと…。

哀愁を誘う電子オルガンの音色が響く『エブリデイ』にのせて、香川、徳島、高知…と画質の粗いステージの映像が流れる。
「絶対に1本もとばさない」と、治りきっていない身体をひきずって、地元四国を回ったのだろうと思うとひどく切なくなった。

そして当時ファンの間で大事件となったホールツアー最終日、岡山公演での「このツアーは失敗でした」発言。

クルーチーフ加藤氏「この人何言ってるんだ?思いました」
エマ「どんな顔をしていいかわからなかった」

大森社長「ただ“失敗しました”じゃなく、経緯を説明しないと、自分たちは失敗を観に来ていたのか?と、そこを説明しないと、そこは言いましたね」

大森社長の言うことは至極正論だ。
岡山で失敗だって言ったらしいという情報はその日の夜にまたたく間に全国のファンの間に流れ、「失敗という言葉は、そのままの意味じゃなくて、別の意味もあるはずだと思う」などと、友人と平日なのに夜遅くまで電話で語り合った事を今でも覚えている。いやぁ~青春だった(苦笑)

「失敗だった」発言の理由として、吉井和哉は「外国のロックバンドのような、そして若手バンドに負けない、重いセットリストを組んでしまった、でもお客さんが聴きたいのはこのセットリストじゃないだろうなと…」
そしてその迷いの果てがあの“失敗発言”だったという真意をやっと知ることが出来たわけだが、確かに言葉が足らなさ過ぎる。

この理由を聞いて、吉井和哉というひとは隠すことは出来ても嘘がつけない人なんだろうと感じた。
週刊誌に暴露されたことはあっても、結婚して子供がいることは公式からは一切公表されなかった、事務所側からも止められていたらしい。
けれどバンド活動中に、吉井和哉本人から「結婚してません、子供いません」と言っていた記憶は無い。


吉井「1月の、秋田の雪景色ね」
メンバー全員の言葉が、表情に柔らかさが消える。

大森社長はスタジオエンジニア希望だった彼を「いい経験になるから」とアリーナツアーの音響スタッフという慣れない仕事に就かせた。
年が明けて99年1月最初のアリーナツアー、群馬公演、奈落※ステージにおける床下よりも深い舞台の底。から落ちそのまま帰らぬ人となった。

慣れない現場への出向を指示し、「もう一度、前橋へ行って“何も起こらない”とわかれば乗り越えられただろう。けれど、バンドが解散してしまったから…(心の整理がつくまで)12,、3年かかった」と大森社長。
現場での上司だった加藤氏は「あの時から自分にとって(パンチドランカーという)ツアーは止まってしまった」。
そして最期を看取った倉茂氏、「彼の最期の言葉は?」の問いにまぶたを閉じ長い時間をかけて搾り出した声。
各々が責任者として、大切な仲間として、スタッフを守れなかった悲しみと苦しみがスクリーンに満ちていた。

それでもツアーを止めるわけにはいかない、予定通りアリーナツアーを続けた。
季節は冬から春に変わろうとしていた。


3月10日、横浜アリーナ。

吉井「横浜で聴くこの曲はいいねぇ」

楽屋でジョー山中の『ララバイ・オブ・ユー』が流れる中、他のメンバーも衣装に着替えたり、エマとヒーセはツアースタッフからのサプライズの寄せ書きをじっくり読んだり、各々が開演までの時を待つ。

帰宅してから調べてみると、『ララバイ・オブ・ユー』は映画『戦国自衛隊』のテーマ曲だった。
15年経った今でも、パンチドランカーツアーのスタッフが“戦友”だと倉茂氏も加藤氏も話していた。
あのツアーを乗り越えてきたからこそ、今もつながっているスタッフがいて、この仕事を続けられているのだと。

ここから画面が鮮やかになり、スクリーンいっぱいの高画質で『ROCK STAR』が流れはじめた。


ロック・スターになれば羽根が生えてきて
ロック・スターになればたまに夜はスウィート


名実ともに日本のロック・スターとなった彼らにとって、「たまに夜はスウィート」の部分が皮肉のようにも聴こえる。
高画質のせいで、化粧が落ちた肌の荒れもよく見えてしまう。
ステージを駆けまわり歌う姿はビデオで見たあの頃より鮮明に、ぼろぼろに映し出されて痛々しい。

そして『SO YOUNG』。

「パンチドランカーツアーのせいでバンドの寿命が縮まった、けれどこのツアーが無ければ『SO YOUNG』という名曲が生まれなかっただろうな…」この曲を聴いた時から、そして現在もこの思いが私の中でずっとあった。
ツアーがもたらしたもの、奪ったもの、知ったばかりの真実のなかで聴く『SO YOUNG』の一節一節が突き刺さって、涙腺がじくじくした。

113公演全てが終わり、観客席を背景にメンバー4人が肩を組み、写真を撮る。
メンバー、少なくとも吉井和哉は達成感で喜びがみなぎる、そんな充実した姿ではなく、精も根も尽き果てて、やっと終わりの地にたどり着いて安堵する旅人のようだった。

スタッフロールでライヴ音源の『パンチドランカー』が流れる。
スタッフロールが終わったところで、各地での『パンチドランカー』ライヴ映像が次々と映され、「そういえば1曲目でいつも赤いサングラスかけてたよなぁ」と一瞬、懐かしくなった。

ラストシーン、モノクロ、ボーリング場で吉井和哉が投球、映画は終わった。


「得たものよりも、失ったものが大きすぎて」
「ロックンロールはそこまで幸せな時間をあたえてはくれなかった」

15年間の封印を解かれ、私たちが見ていた熱狂と興奮の記憶の奥に隠されていた記録、それはイエローモンキーというロックバンドがパンチドランカーになっていく姿だった。
予想以上の苦痛をともなったツアーだったことを知った。
だけど、それはやっぱり、幸せな時間だった。もし「あなたの20代の頃幸せだった記憶は?」と問われれば迷うことなくイエローモンキーのライヴを上げる。

自分の心のうちをごまかしてまでバンドを続けられるほど吉井和哉は器用じゃなかった、そんな彼をヒーセも、エマも、アニーも、メンバー全員が『THE YELLOW MONKEY』というバンドを大切に想っていた、それはスタッフも同じだった。
彼らが挑んだ無謀なツアー、その113分の4公演の記憶を、そしてその記録を大切にしていきたいと感じた。
まだ動揺は残っているが、ドキュメンタリー映画としては素晴らしい作品だった。



誰にでもある青春 いつか忘れて記憶の中で死んでしまっても
あの日僕らが信じたもの
それはまぼろしじゃない

SO YOUNG!!



誰がなんて言っても、これからもずっと君が好きだよ。



パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE(.../THE YELLOW MONKEY

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PUNCH DRUNKARD TOUR 1998/99 FINAL 3・10横浜アリーナ [DVD]/THE YELLOW MONKEY


SO ALIVE/THE YELLOW MONKEY

「映画に出てきた重要なライヴシーン音源収録。このアルバムを今になってヘビロテするとは思わなかった(笑)」