山田方谷の功績 | よろず「ゆんたく」広場

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ぎのわんシティFM「水曜ちゅらちゅら作戦」でパーソナリティーを務めるコギーのブログです。
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3月17日の記事 では、岡山県新見市にある「山田方谷記念館」を紹介しましたが、その山田方谷の功績については詳しく触れていなかったことに今更ながら気づいたので、簡単にではありますが、以下の冊子よりそれらの一部を紹介します。





山田方谷は1849年、備中松山藩の藩主板倉勝静から同藩の元締役に命ぜられました。元締役とは藩の財政長官で、今の日本で言えば財務大臣にあたります。つまり、山田方谷は備中松山藩の財政を担当するようになりました。


当時の備中松山藩の歳入は1万9千石程度だったのに対して、歳出は5万石くらいでした。当然藩の借金は年を追うごとにかさんでいき、方谷が藩の元締役に就任した直後には借金が10万両にまで膨らみました。しかし、彼の活躍により、8年後には逆に10万両の蓄えができるぐらいになりました


では、どのようにして藩の財政を立て直したのでしょうか。


【倹約令を出した】
藩の借金を減らすために、山田方谷は倹約令を出して、無駄遣いを禁止しました。しかも、ただ単に領民に倹約を命じただけではなく、山田方谷自身が率先して下級武士並みの生活を送って倹約に勤めました。さらに、方谷自身の家計も率先して公開し、倹約の見本となりました。


【大阪商人に借金の返済延期を要請】
「誠意をもって相手に接しなければ相手には伝わらない」と方谷は自ら大阪へ出向き、借金をしていた大阪商人に藩の財政の実情を話しました。そこで誠心誠意借金の返済延期を要請した結果、それが実現したのです。


【大阪の蔵屋敷を廃止】
経費削減のために大阪の蔵屋敷を廃止し、年末に元締役が大阪に出向いて会計処理を行うようにしました。それまでは、蔵屋敷に人件費や交際費など、多額の費用を投じていましたが、蔵屋敷廃止によって毎年1千両ほどの経費が削減できるようになりました。さらに、藩内で取れる農産物は時機を見て有利に売ることができるようになり、それまでとは反対に多くの利益が得られました


【藩札を新しく作りかえた】
江戸時代は、貨幣を作ることができたのは徳川幕府だけで、各藩では貨幣に交換できることを条件に独自で藩札を作っていました。備中松山藩は藩札を大量に発行しすぎたため、交換用の紙幣が無くなったり、偽札が出回ったりして藩札の信用がなくなってしまいました。そこで方谷は信用がなくなっていた藩札を3年がかりで買い上げ、すべて燃やしました。そして「永銭」と呼ばれる新しい藩札を発行しました。その結果、藩札の信用が取り戻され、藩札を貨幣に交換することが滞りなく行えるようになりました。


以上が財政を立て直すために行われた主な施策です。方谷はこれらのみならず、農兵隊を作って藩の防衛を強固にしました。農村の若者を集めて訓練をさせ、近代的な軍備を整えたのです。さらに学問所を作って、下級武士や町人、百姓にも学問をする機会を提供したり、道路、舟路などのインフラ整備も行いました。つまり、倹約をしただけでは、藩の経済事情が良くならないことを見通して、農、学、軍といった社会基盤の強化にも取り組んだのです。


いつの時代も歳出を削るだけでは、景況は良くならないということがわかります。山田方谷のように先見性と大胆さに富んだ指導者の出現を切に望んでいます。