(325)甲府勤番(こうふきんばん) | 江戸老人のブログ

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(325)甲府勤番(こうふきんばん)


守備が手薄だった甲府
 
 サラリーマンであれば、甲府勤番といえば「左遷」を意味することは、だいたい御承知のようであり、これは事実といっても差し支えないだろう。

 武田信玄の城があった甲府は、江戸幕府成立後、重視された徳川家の領地である。良く間違えるのは、武田信玄は甲府城には住んでいない。長いこと現在の武田神社にあって、いざ戦闘となれば、背後の急峻な山に篭って戦ったという。もっとも戦いはなかったと記憶するが違っているかも知れない。
 

 甲州は、三大将軍の家光の三男綱重に与えられ、綱重の子、綱豊が六代将軍家宣(いえのぶ)になると直轄地に編入された。
 その後、五代将軍・綱吉のときに側用人を努めた柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)の子、吉里に与えられるが、吉里が大和郡山へ転封(てんぽう)となると、再び直轄地となり、以後は大名にあたえられることはなかった。

 

 甲州の幕府直轄地は、甲府、市川、石和(いさわ)、谷村(やむら)に代官所が置かれ、代官によって年貢が徴収された。
 しかし、代官はせいぜい二百俵クラスの下級旗本で、代官所は代官に付属する手付け、手代、といった少数の事務員で業務がなされた。軍事力はおろか、警察力すらほとんどなかった。
 

 甲府には府中城があったから、ここを守護する必要があった。そのため、旗本が勤番の形で派遣されることになった。
 責任者は、甲府勤番支配といい、二名の比較的大身(家禄の多いもの)の旗本が任じられた。
 

 この役は諸大夫役(しょだいぶ・やく)で、役高三千石、席次は遠国奉行の上とされた。甲府に居住するため、引越し拝借金三百両が給付され、役知(役を務めることによる知行)が千石ついた。
 つまり、家禄千五百石の旗本が甲府勤番支配となれば、在職中は、家禄千五百石のほか役高との差額千五百石と役知の千石が加算され、四千石の知行となるのだ。


 無役だった旗本が甲府勤番になったとする。問題になるのは部下となる者たちの甲府転勤をどうするかだ。
 もともと甲府勤番は、享保九年(1727)、八代将軍吉宗のとき、小普請組支配・有馬内膳と、奥津能登守を甲府勤番の頭(後の甲府勤番支配)とし、その配下の小普請(無役の旗本)から五百石以下、二百石以上の者八十余人とそれ以外の小普請から百十余人、合わせて二百人を甲府勤番に命じ、甲府に派遣した。
 

 勤番の旗本は二組に分けられ、組頭が二人ずつ置かれた。組頭の役料は三百俵である。
 最初派遣されたものには、両番(書院番と小姓組番)家筋の者もあれば、大番家筋の者もあり、それ以外の家筋の者もあった。
 つまり、当初は、たまたま小普請でいた者を任じたというものだったのである。そのため甲府勤番は、幕府の役職としては珍しく、きちんと格式が整ったものではなかったといえる。

 

 無役であった旗本にとっては、役が付いたのだからありがたい話だったかもしれない。しかし、ふだん江戸で暮らしている旗本にとって、甲府に赴任することは大変な負担であった。
 そのためか、甲府勤番には、旗本の中では何かと問題のある者が任じられるようになった。


甲府勤番を命じられた問題のある旗本たち
 『古事類苑』という明治時代に編纂された歴史辞典に引用された「仕官格義弁(しかんかくぎべん)」という史料には、「甲府勤番は、たとえ幼年・老人・病身など番を勤めがたい者であっても、やはり甲府勤番と呼ばれるのはどうしてか」という質問が収録されている。
 これに対して、「病気や幼少などのため番を勤められない者は、ただ小普請の者が甲府に暮らしているというだけで、甲府勤番を勤めているわけではない」という回答がなされているが、実態はそういう者が甲府勤番には多かったことが推測される。
 

 江戸時代後期には、甲府勤番は不良旗本の溜り場になっていた

 例えば遊郭などに入りびたっている旗本が借金だらけになる。吉原の亭主が返済を督促しても、一向に返そうとしない。仕方なく町奉行所に訴え出ると、旗本は用人などを出頭させ、「自分の主人は吉原などへは行かない。別人が主人の名をかたったものだろう」などと返答する。
 江戸時代、旗本の身分は高く、町奉行もその旗本を直接審理することはできないから、結局、うやむやになる。
 しかし、そうしたことを繰り返すと、幕閣の知るところとなり、甲府勤番を命じられる。
 甲府に行けば、借金の返済などは迫られないので、その旗本は嬉しそうに赴任する。
 

 しかし、妻子は、江戸から離れることを嫌がったという。
 このため甲府勤番は、府中城を守る重要な番であるにもかかわらず、こうした不良旗本の溜り場になっていたのである。
 慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗北した後、江戸に戻った新撰組の近藤勇は、大久保大和と名を改め、新撰組の残党とともに甲陽鎮撫(ちんぶたい)を組織して甲斐に向かった。これは、旧幕府の甲府勤番がまったく無力な存在だったためだった。


 『江戸の組織人』山本博文著 新潮文庫