(324)『たけくらべ』 その2 | 江戸老人のブログ

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(324)『たけくらべ』 その2

  


 前のたけくらべの中で、芸人たちが遊郭の吉原へと入って行き、吉原の近所などには目もくれない。何故といってご祝儀の額が違うからだ、と書いたのですが、この辺りをもう少し詳しく当時の雰囲気を味わっていただきたいのと、日本の伝統遊芸の背景を少しばかり。


貧民窟
 ところで、この芸人達はいったいどこから来るのか。「万年町、山伏町、新谷町(しんたにまち)あたりをねぐらにして」と一葉は書いている。当時の下谷万年町は、四谷鮫が橋、芝新網とともに「東京三大貧窟のひとつ」であり、東京で最も家賃が安いところだったと、横山源之助(1871~1919)は『日本の下層社会』で書いている。この本は、明治三十一年の調査によって執筆された本だ。
 

 一葉がた『たけくらべ』を書いた、わずか三、四年後の東京である。
 これらの貧民窟には、人力車夫、人足、人相見、ラオ(煙管の胴)のすげ替えや下駄の歯入れをする職人、古下駄買、按摩、大道講釈師、屑拾い、溝小便所掃除、かっぽれや、ちょぼくれの大道芸人が暮らしていたという。山伏町も、横山源之助は貧民窟として挙げている。当時の山伏町は、万年町と比べ、囚人や失踪者が多かったという。また貧民窟それぞれの特色を挙げる中で、横山は同書で、万年町の住民が「油断していれば庭のものをさらえゆく心配あり。路地の汚さは万年町が最も甚だしく」と書いている。

 

 貧民窟には、大道芸人たちが多いというが、当時の東京では万年町より、四谷天竜寺門前町と芝新網(しばしんあみ)が、芸人の町として知られていた。横山源之助はこれらの町にいる芸人として、かっぽれ・ちょぼくれ・大道軽業・辻三味線を挙げている。彼ら大道芸人の日常を取材した横山は「大道軽業・住吉踊の類は常に組を作りて雑踏の地に入った」とも書いている。縁日に出て行ったり、地方に出て一、二ヶ月間興行をすることもある。一日で五円、十円を稼ぐこともあるが、わずか一円、二円のときもあったという。

 

 興味深いのは、その興行形態だ。プロデューサーを勧進元(かんじんもと)という。軽業の場合、勧進元は収入の三分の一を取り、残り三分の二は軽業師仲間で分ける。勧進元は道具一切を用意し、警察に責任を負う義務があった。あるいはお互いに道具を持ち寄り、その中の一人を勧進元にし、平均に収入を分配する場合もあった。尻を左右に振り、往来を流し歩く「飴屋かんちゅりん」とか、男女の「かっぽれ」とか、「あほだら読み」は、稼ぎがわずか三、四十銭だった。
 これらの他に「ムグリ」(もぐり、か?)という者がいて、芸人の鑑札を持たずに縁日に出て三味線を弾いた。これは年配の女性が多かった、という。
 横山は同書にさらに、雨天のときにこの芸人たちがどのような状況になるかを書いている。

 

 二、三日雨天の続くことあれば、辻三味線は三味線を、阿保陀羅(あほだら)読みは木魚を質入し、今までに前に据えおりたりし膳までそのまま質屋に持ち行き、二、三日して家は空虚となること一月幾回もあり。雨降る日、新網を往来せば、かれらは平常大道に滑稽を演じ、浮世を三分五厘とわいわい騒ぎ居るにもかかわらず、悄然(しょうぜん)と火の気なき火鉢を囲みて無言に空打ち眺めつつ居るを見ること多し。貧は淋しき者なり。

 

 雨天の時期、商売道具である三味線や木魚や、食事をするお膳まで質入れしなければ生きていけなかった。大道で、わいわい賑やかに明るく振舞う彼らが、雨の日に火の気のない火鉢を囲む様子を見て、横山の胸は痛む。ここには、実際に取材しなければわからない貴重な情報が書かれている。こういう貧民窟の芸人たちが、美登利の前を通っていったのである。
 

 しかし芸人はプロフェッショナルだ。大道を行くときに、そんな苦しい表情は一切見せない。
 美登利は彼らをどうみていたのか。「あれ、あの声をこの町には聞かせぬが憎し」という筆屋の女房の言葉に、「あの太夫さん呼んできませう」とただちに答えて走り出しえしまう美登利は、やはり筆屋の女房と同じく、芸人たちが瞬く間に通り過ぎていってしまうことを残念に思っていた。そこで女太夫のたもとにそっとお金を入れる。そして「明け烏を」と耳打ちしたのであろう。女太夫は住吉踊りについていた者か、一人で行くものかわからないが、「喉自慢、腕自慢」と書く以上、三味線を流しながら歩いていたと見える。

 ここで三味線が鳴る。女太夫ののどから、高い声が糸を引く。

 かねて二人がとりかはす、起請誓紙(きしょうせいし)はみんな仇、どうで死なんす覚悟なら、三途の川もこれこの様に、二人手をとり諸共と、なぜに云うては下さんせぬ。私を殺さぬお前の心、嬉しい様でわしゃ厭じゃ・・・・・・わしや遣りはせぬ放しはせぬ、殺しておいて行かんせと、男の肩に食い付いて、身を震わして泣きいたる。

女太夫が新内「明け烏夢の淡雪」と唄ったのは確かだが、この箇所だったかどうかは書いていない。が、吉原で聞かせるとしたら、やはりこの場面が遊女たちに受けたことだろう。
 

 この新内の舞台は、ここ表町から三分とかからない、吉原遊郭内、京町二丁目である。遊女・裏里(実在の遊女:うらさと)と、長い間の恋人で、起請(誓いの言葉)誓紙を取り交わした時次郎(実際は、幕府官僚の子息、伊藤伊之助の、実際にあった心中事件がテーマである。
 裏里は時次郎に心中を迫る。が、それを知った抱え主は、雪降る楼の庭で、浦里を木に縛り付け折檻(せっかん)する。
 奇しくも、それをかばって浦里に抱きつく禿(かむろ)の名前を、「みどり」という。禿とは、花魁(おいらん)に付き添って雑用をしながら、弟子として遊女の修行をする少女のことである。美登利は禿ではないが、学校に行きながら遊芸、手芸の習い物をし、半日は花魁である姉の部屋で過ごしている少女だ。境遇は近い。
 ともかく、実際に起きた事件をそのすぐ裏の道で聞かせるこの臨場感に注目したい。

唄い終わった女太夫、「また御贔屓を(ごひいきを)」と、美登利ににっこりしながら愛想良く立ち去る。まわりで聞き惚れていた人たちはその瞬間、はっと我にかえって、思わず見つめたのは美登利の顔だった。「たやすくは買いがたし。あれが子供の所業(しわざ)か」――こんなこと大人でもなかなかできないよ。あれが子供のやることか、と。
 とはいっても「舌を巻いて」いうのだから、非難ではなく感心したのである。

 

 ちなみに女太夫という言葉は、単に三味線の流しを意味するだけではない。「女太夫」は非人組織に所属する女性芸人のことなのである。喜多川守貞の『守貞漫稿』によると、江戸にはその組織の長が四人いた。浅草の善七、品川の松右衛門、深川の善三郎、四谷の久兵衛である。
 

 善七の配下は、嘉永年中(1848~1853)、五千九百五十人いたという。彼らのうち男性はさまざまな公用雑務や、履物の修理、雪駄直しなどをした。そして女性は「女太夫」といわれ、一人、あるいは二、三人で三味線を弾き、門付けをしたのである。
 女太夫は菅笠(すげがさ)をかぶり、木綿の着物に木綿の帯の新しいものを身につけ、襟や袖口や襦袢(じゅばん)や腰帯には絹の縮緬(ちりめん)を使い、化粧をし、日和下駄(ひよりげた)を履き、木綿の手甲をつけ、なまめかしい姿で唄った。
 

 「往往この女太夫に美人あり」と、喜多川守貞はいっている。『守貞漫稿』は天保八年(1837)から慶応三年(1867)の江戸を記録した随筆である。『たけくらべ』は、そのわずか三十年後の東京を舞台にしている。
 美登利が見たのも、この美しいなまめかしい女太夫であった。門付けしてもふつうは、一文、二文しかもらえなかった。今のお金で何十円くらいだろうか。しかし客の方から声をかけ、近くに呼ばれて一曲語った場合、二、三十銭もらえたという。
 四文銭のことであろうから、約八百円ぐらいだと考えられる。美登利はそのくらい、たもとに入れたのだろう。


引用図書:「樋口一葉『いやだ!』と云ふ」田中優子著 集英社新書