(323)安政大地震と町奉行所 | 江戸老人のブログ

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(323)安政大地震と町奉行所



直下型地震時の町奉行所、与力の行動

 安政二年(1855)十月二日、江戸をマグニチュード6.9の直下型地震が襲った。町奉行所の与力、佐久間長敬(おさひろ)が、体験談を話している。

 地震があったとき、長敬は十九歳の青年だった。十畳敷きの座敷の寝床に入り、寝つきもしないうちに西の方からごうごうという響きが耳に入った。何事かと顔を上げると、夜具のまま三・四尺も投げ上げられたように感じたという。


 地震発生時刻は夜十時頃と伝えられるから、早寝だったのだろう。枕元では、姉二人が裁縫をしていたが、あまりの揺れに、「どうしよう、どうしよう」と泣き叫びながら長敬の上にうち重なってきた。長敬は、二人の重みで飛び起きることもできなかった。奥座敷からは、寝ていた父親の声が聞こえた。姉たちとともに廊下に駆け出したところ、壁が落ちているのにつまずき、将棋倒しになった。転がるようにして両親の寝間に入ると、母親が声も出せず、うなっている。

 どうしたことかと寄って見ると、大柄な下女が三人も母親の上に折り重なっている。地震が起こったとき、片付け物をしていた下女たちは、夢中で主人の寝間に走ってきて、母親を守ろうとその上に押し被さったのだ。それが次々に三人もだから、かえって母親は死ぬほど苦しんだ。母親は三歳になる子を守ろうと身をもって防いでいたのだ。


市中救護に即対応した奉行所

 その日は、新月の頃で、全く明かりがない。父親は火をともせと叫んだ。ようやく蝋燭や提灯に火をともしてみた所、戸や障子は外れ、家具が散乱し、土蔵はみな土が落ちて柱が傾いている。

 早く安全な所へ立ち退こうと玄関前の広場に出た。火事が心配なので火は消した。

 ところが、近所裏の茅場町(かやばちょう)の民家では、すでに火が出ていて、たちまち火の粉と光が目に入った。しかし、通常の火事と違い、警鐘も版木もならない。誰も彼も地震の揺れで動くことができず、ただ自分と家族の命を救うことだけで精一杯だったのだ。

 長敬たちは、燃えては何もならないというので、一番いい服を着、大小の刀も一番いいものを差し、お金もできるだけ持ち出して各自に分け、もし離れ離れになったらどうにか生き延びて、再びこの地に帰ってくるようにと申し合わせた。


 周辺ではすでに大火事が発生していた。長敬は、お城が気がかりになり、金を投げ出し、家族も見捨ててお城に駆けつけようとした。しかし、父親は、「夜中に大地震では城には入れない。それより仲間の若者を誘って奉行所へ行け」と指示した。

 そこで長敬は、人を走らせて仲間の与力・同心を呼び、集まった二十五人で奉行所へ出頭した。

 奉行所では、町奉行池田播磨守(いけだ・はりまのかみ)が、火事具に身をかため、玄関前で床机(臨時に使用する椅子)に腰掛けていた。長敬は、奉行の無事を祝し、与力・同心の家の様子を報告し、何か御用があればと駆けつけたと申し上げた。


 奉行は、お城に同心を遣わし、若年寄から、「上様は我々がご警固もうしあげる。奉行所は市中の救護をせよ」との命を受けていた。そのため、被害者への炊き出し、お救い小屋の建設、怪我人の救護、必要な物品の確保、諸職人の呼び出し、売り惜しみや買占めの取り締まりなど、市中の救助や取締りを次々に指示していた。


大地震に遭って助かる運のよさ

 こうして見ると、現在の都庁に相当する町奉行所は、被害を受けた人々を救うために、迅速に手を打っていたことが分かる。もちろん、都職員の数とは比較にならない少人数であったが、わずかな人数で、大江戸をできるだけ混乱のないようにしようとしていたことは、高く評価できるだろう。


 さて長敬は、大地震の時にはどうすればいいかについて、次のように述懐している。

 「出る余裕があれば表へ立ち退くより外はないが、せっぱ詰まった状況では、学者でも英雄でも工夫も何も出るものではない、アーという間に家はつぶれてくる、そのとき表へ飛び出した人は夢中に出たので助かったので、たんにまぐれの幸運だったにすぎません」

 つまり大地震に遭って助かるのは、行動がよかったというより、運がよかっただけというのである。水戸藩では、有名な尊皇攘夷の理論家、藤田東湖が倒壊した家で圧死している。見当たらぬ母を案じて躊躇(ちゅうちょ)しているうちに、被害にあったという。学者でも英雄でも、運が悪ければ死ぬのだ。

 われわれも、実際に大地震に遭遇すると、思っていることの十分の一も行動できないかも知れない。しかし、運まかせにするのではなく、歴史に学び、できるだけの対策は立てておくべきだろう。

阪神淡路大震災での犠牲者は、多くが転倒した家具などで圧死している。色々と便利な転倒防止の器具を売っているから、最低限のことはしておいた方がいい。海岸での大地震はとにかく高い所へ逃げることと判明した。気象庁より自分で判断を下した方がいい。



参考図書:『江戸の組織人』 山本博文著 新潮文庫