(322)町奉行所のお仕事 | 江戸老人のブログ

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(322)町奉行所のお仕事
 
 テレビの時代劇「大岡越前」や「当山の金さん」などを見ていると、親しみを覚えて、身近な身分の方と錯覚するが、幕府内で、町奉行というのはとにかく偉い。ほとんど将軍直属のトップエリートだった。この辺りをまず押さえておくようにお願いします。

 

 じゃあ何をしていたのか?といえば、警察と裁判所の両方といったらいいでしょうか。
 また自分で訴追して、自分で判決を下しているので、現在で言うと、検察官と裁判官の両方を担当している。簡単に言うと江戸の犯罪については、神様のごとく全権を握っていたのであります。
 そうはいっても、現実として町奉行所の中では、次のような役割分担があった。
 

 まず、犯罪の捜査に当たるのは定廻りの「同心」です。で、容疑者の捕縛に当たるのは、町奉行から命じられた「与力」であります。与力の方がずっと身分は上でした。
 この与力にも役割分担がありまして、容疑者を取り調べるのが、吟味方与力でした。吟味というのは調査とでもいいましょうか。この方たち、かなり優秀と伝わっておりますが、取調べのエキスパートで、あまり拷問に頼らず、証拠などをあげ、自白させたといいます。火付け盗賊改めは、「最初から拷問」だったみたいです。

 

 与力は自白調書を作りまして、その調書をもとに、町奉行が町奉行所の庭に設けていたお白州で審判を下すのであります。
 テレビの時代劇では、町奉行が、被告に「遠島」とか「磔(はりつけ)」「獄門」などの極刑を申し渡していますが、しかしそれはテレビドラマの時間の都合からでして、そのようなことは絶対になかったのであります。
 

 なぜかといいますと、町奉行所に許されたのは、中追放刑まででして、重追放(田畑・家屋敷・家財没収のうえ、武蔵・山城など十五カ国と東海道筋・木曽街道筋への立ち入り禁止)以上の重い刑は、老中に上申しなければならない決まりがあったからです。

簡単には死罪にできない?
 

 重い刑に問われる可能性がある事件は、老中の諮問機関だった奥右筆(おくゆうひつ)へ調書と共に引き渡されます。奥右筆という組織は、老中の公設秘書みたいなものですが、その中に裁判担当官がおりまして、この人たちは世襲の法曹官僚で、刑事法であった「公事方御定書(くじかた・おさだめがき)や、過去の判例を良く知っておりまして、その事件についての「公事方御定書」の該当箇所と似たような、類似事件の二例をつけて判決案をつくります。
 

 次に老中がそれを認めた場合は将軍に上申し、その裁可を得た上で初めて判決が言い渡されるのであります。案外にうるさい面倒な手続きが必要だったのであります。
 ただし死罪の場合は、容疑者への申し渡しは、老中や町奉行が行うわけではありませんで、小伝馬町にあった牢屋敷で、囚獄(しゅうごく)の石出帯刀(いしで・たてわき)が申し渡すことになっていて、そして即座に刑の執行が行われるのであります。石出帯刀さんは、世襲でして、ずっとこのお仕事を続けておりました。(要確認)
 
 このように重い処罰の場合は老中に上申されることになっていたため、町奉行所と火付盗賊改がそれぞれお白州を設けて審判しても、容疑者にそれ程不利になるわけではありませんでした。
 こうした慎重な措置がとられたのは、犯罪者といえども容疑者であるうちは、徳川家の領地の民であり、無闇に命を奪うことはできないという観念があったからだろうとされます。これは人権の概念とは異なるものですが、結果的には似たような意義を持っていたのであります。


参考本:『江戸の組織人』山本博文著 新潮文庫