(244)御所御千度参り
神仏に願いをかける願掛け(がんかけ)は、今も盛んに行われています。正月などは初詣に人々が神社仏閣に押し寄せ、神仏に手を合わせている姿は、遊びやレジャーのひとつという面がないでもありませんが、広い意味では神仏への願掛けと考えられます。
投げ入れられるお賽銭の額は、景気に左右され上下があるようですが、【願掛けにはお賽銭が必要】と考えられていますから、参拝者は何がしかのお金を賽銭箱に投げ入れます。
「神社仏閣への参詣→お賽銭→願掛け」は日本の常識ですが、江戸時代の上加茂神社のもと神職は、「お賽銭は、神社と神職の金儲けの手段だ」といい、願掛けの人々も、わずかな金額を使って大金を手に入れようなどと、「あまりに強欲だ」と指摘しています。この人の色々な【過激発言】が幕府の警戒心を刺激し、この人は八丈島に流
されています。
参詣のひとつに【お百度参り】というのがあり、特定の神仏に百度参詣することですが、昔はもっと厳格なものだったらしいのですが、簡略化され、一日に百度参詣すればより効果的とされました。時代劇なんかにもよく登場しますからご存知と思います。もっともお賽銭はどうしたのかがわかりませんが。
ご千度参りというのもありますね。百度参りよりかなり気合が入っております。百度より千度のほうが、神仏の注意を強く引くことができ、もっと効果的だと考えたのでしょう。
天明七年(1787)六月に、京都で【神社仏閣ではなく】天皇がお住まいの御所(ごしょ)への【千度参り】の記録があります。御所は現在も京都御苑(ぎょえん)の一郭にあり、高い築地塀(ついじべい)に周囲を囲まれていますが、その築地塀のまわりをグルグルと人が廻ったそうです。当時の人が、これを「禁裏(きんり):御所あるいは天皇をさす」へ御千度」と記しています。東京であれば、皇居にご千度参りするようなものでしょう。もっとも現在はランチタイムなどに多くのランナーが廻っているようですが。
この話、詳しく調べますと、六月はじめからで、最初は十人から二十人くらいの少人数でしたが、だんだんと増え、六月十一日には爆発的に増加、五万人という大勢の人が【御所千度参り】に集まったそうです。ガヤガヤ・ワイワイ大変なものだったでしょう。この千度参りは九月ごろまで続いたらしいのですが、これだけの人数が集まると、千度参りの参加者を相手に、酒と肴、トコロテンや瓜(ウリ)を売る商売人もたくさん集まったらしいのであります。
朝廷側はどうしたか? 「うるさいから禁止でおじゃる!」といったか? 記録には千度参りを制止するどころか、御所内の、冷たく綺麗な湧き水を築地塀の脇の溝に流し、後桜町上皇(ごさくらまちじょうこう)はリンゴを配り、有栖川宮(ありすがわのみや)は、お茶を振る舞い、鷹司家(たかつかさけ)からは強飯(こわめし)が配られたりと、朝廷や公家は湯茶、握り飯などのサービスにあい努めたといいます。
人々は、御所築地塀の周りを何週か周り、南門あるいは唐門(からもん)のところにくると拝礼し、お賽銭として銅銭(寛永通宝)一枚、あるいは十二枚を色紙に包み、門前の敷石のところを賽銭箱に見立てて投げ入れたといいます。
「十二銅山をなし、散銭(さんせん:賽銭のこと)」敷石を埋め」と、当時の史料が伝えるように、毎日毎日お賽銭の額も相当になったらしいのであります。ある資料によると、毎日、四十貫文(銅銭の数で四万枚、金に換算して六両三分に近い)もあったそうです。
人々はなにを願掛けしたのか? 銅銭を包んだ色紙に願い事が書かれていたらしいのですが、「米価が高騰しているのに、京都町奉行所は何もしてくれない」といった不満も書かれていたそうですが、五穀成就(ごこくじょうじゅ)、すなわち【豊作を天皇にお願いする】のがいちばんの目的だったようです。
当時は長く続いた天明の大飢饉のピークにあたり、凶作で米価は高騰、東北地方を中心に餓死者が続出、江戸や大阪をはじめ、全国の城下町などでは一揆や打ちこわしが頻発するという不穏な状況にありました。京都では、一揆や打ちこわしが起こらない代わりに、【御所への千度参りが大規模に行われた】と考えてもよいとか。人々は天皇を神仏に見立て、天皇お住いの御所へご千度参りし、米価高騰による生活苦からの解放を願い豊作を祈願したはずです。
御所ご千度参りの参加者は、もちろん京都市中の人が多かったのですが、個人での参加だけでなく、町内でそろっていくというのもあった。京都だけではなく、噂を聞きつけた大阪の人たちが、淀川を船で上ってくることもあったと記されています。京都近郊の近江(おおみ)や河内(かわち)の村々から、熱狂的な伊勢神宮へのお陰参りを髣髴(ほうふつ)させるように参加したとも伝わります。
しかし、それだけでは六月十五日に五万人もの人が集まるとも思えません。何か秘密がありそうです。実は、「六月十一日に御所千度参りに参加しよう」、と人々に呼びかける「張(貼)札」があったといいます。
貼札といえば、今でいうポスターのこと、これは当時でも効果があったと思われます。
【余談ですが、この貼札のうち、ちょっとヤバイのがありまして「火札(ひふだ)」というもの、遺恨のある相手の家に「放火するぞ}とか書いて貼ったり、道路などにまくこと、ほとんどが死罪です。罰則規定があるところを見ると、現実にあったようですね。】
三井文庫(江戸時代の越後屋呉服店などの史料を収蔵)の史料の中に【越後屋京本店の日記】があり、本店内の記事だけでなく、各種の情報も書いてありますが、天明七年(1787)六月七日のところに、次のようなことが書いてあるといいます。「今月の初め頃、ところどころの門に札が貼ってあるとの風聞があった。札の表には、「天下泰平五穀成就」と書いてあり、その下に稲を打ち違えた(たがえた)彩色した稲の絵が描いてあった。
さらに、ちかごろは凶作だといって米穀の価格が高騰し生活に困窮した人が多く、大変難儀している。そこで六月十一日に「禁裏へ御千度参り」をしよう・・・というお志をお持ちの方はご参加ください、と書いてあった、また他の場所の札には、「米穀豊作のため、禁裏へ御千度参り仕り候、稲荷大明神の霊夢(れいむ)をこうむり候につき、当月十一日、信心の方は御参詣これ在るべきもの成」と書かれていた、とあります。
ポスターの呼びかけに応じて、五万人もの人が集まる、どこか日本の近代がこの頃から始まったと筆者は強く感じます。
貼札の効果はどうだったのか? 幕府も、コメを放出するなど特別措置を講じており、「ご千度参り」の効果の現実結果と思われますが、米穀の作柄は、(千度参りの効果があったかどうか、)「近代まれに見る豊作」と記されているそうです。
引用文献:『大江戸世相夜話』藤田 覚著 中公新書 2003年