(243)流行の先端、女学生の袴(はかま) | 江戸老人のブログ

江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。



(243)流行の先端、女学生の袴(はかま)


 いつの時代も、風俗をリードしていくのは、女子高校生ほどの年齢の女性たちのようです。明治でも袴をはいた女学生(今だと女子高校生ほどでしょうか)が目立ち、派手な袖をひるがえして男子のように街を歩いていたそうです。

 小道具は「洋書」でした。この「洋書」は「和綴じ」でない書籍のことと筆者は推理しています。現代では、成人式・卒業式など袴も多いようですが、女性が袴を身に着けるのは、明治中期からの新風俗と分かります。色は紫色とえび茶色が一般的だったようですが、海老(えび)茶色の袴が華族女学校の制服だったところから、これが他の女学校へ伝承し、また女学生のことを「えび茶式部(えびちゃしきぶ)」と呼んだようです。

 本文はここから(多少編集しています。ご了解の程)ショット面倒でしょうが原文でお読みください。 

 

明治五年版『雑誌』三十一号に、「昨秋より当府下、官公私塾の盛んなる、幾ヶ所なるを知らず、また女学教授の者、相次いで出で、所々に塾を開きしより、往々、婦女子の袴を着し、洋書を懐にし、街上を往来するを見たり」とあり、同七十号には、挿絵を入れて少女の袴着用を示せり。

 

 また同三十五号に、「洋学女生と見え、大帯の上に、男子の用うる袴を着し、足駄をはき、腕まくりなどして洋書を掲げ(かかげ)往来する者あり」とて、そのモダーン風を報ぜり。また『年表』近頃世に行はれたる物の中に、「女学校通学少女袴」をあげおり。十一年七月『東京新誌』第百五号に、女学校論あり、「きらびやかな袖を風にひる返し、紫の袴で地面引きずるように、左に書籍をはさむ云々」、当時の袴色は紫なりしを証すべし。

 

 二十二、三年ごろの、府(東京府)下小学校女生徒は、日本髪にて、平常は袴をつけ、式日などには、紋付や帯に礼意(敬意)を表わせしためか、袴を着けざるを常とせり。三十二、三年ごろより行灯袴といって、また(股?)のない袴追々流行し(もっともそれ以前にも、これを用いる者少しはありし)、つひに今日の大流行を見たり。

 

 女学生に袴あるは、跡見女学校を始めとす。同校の神田にある頃(同校は二十年八月、小石川区柳町に移る)より、いちように紫色の袴を用ひしめ、明治末より、女学生が、「海老茶」の袴を一般に用ふれども、跡見だけは、なお旧容(紫色)を改めず。
 女学校の袴の海老茶色なるは、華族女学校に始まり、校長下田歌子の案なりといふ。これより、女学生に「海老茶(えびちゃ)式部」の俗称あり。


引用図書:『明治事物起原』石井研堂著 巻七 ちくま学芸文庫