(242)防災の日・吉村昭が伝えたかったこと | 江戸老人のブログ

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(242)防災の日・吉村昭が伝えたかったこと

 

 

雑誌文藝春秋社から「九月臨時増刊号」として『吉村昭が伝えたかったこと』が出版された。生前の文学活動をも含め、吉村昭氏の魅力を上手にまとめている。

 時期が時期だから特に二冊の著書『関東大震災』と『三陸海岸大津波』についての記述が多く、史実を徹底して調査された吉村氏が、「人々の命を守るために活用して欲しい」と、願う気持ちが読者へもひしひしと伝わってくる。吉村昭氏が伝えたかったことを再度記します。

 

 話の前に、日本の「地震予知学」と父ともよばれる、今村昭恒(いまむら・あきつね:1870~1948)の名前をご記憶いただければ、と思います。二十一歳で東京帝大物理学科に入学、地震に引き込まれていく運命、地震学者となります。
 「地震学」といっても何もない状態、第一、地震が多発する国もほとんどないので、地震への学問的関心も欧米では皆無だった。来日しているとき帝大で地震に驚いたイギリス人講師が作った地震計(強地震専用)を引き継ぎ、イロハのイから始めたのが今村だった。
 
 

 過去の古文書を読み、大地震には周期性があると気づき、発震の18年前に大地震が今後30年以内に発生すると予測した(「関東大震災」)。 学問的論文で、建築物の構造とか、防火を中心とした、さまざまの防災を呼びかける内容だったが、「東京六ニ新聞」が面白おかしく書きたて、「死者十万人」と強調して書きたて、住民にパニックが発生した。防災の観点は一切無視、大衆を煽り立てるセンセーショナルなメディアは、今も昔も変わらない。

 

 人々の日常生活にまで支障が出たため、今村昭恒の上司であった、大森房吉教授(1868~1923)が雑誌『太陽』誌上で今村昭恒に反論し、二人の確執は強まっていく。両氏ともに何らの学問的データがあったわけではなかった。ただ、両氏ともに地震の来襲を予測していた点では変わらない。二人が恐れたのは火災であった。水道があるから大火事にはならない、との大森博士説を、水道は地震で破壊されるから役に立たない、といった風で、それほど役に立たぬ議論となった。

 

 

 色々な経緯があって、今村昭恒は結果的に関東大震災を見事に予測した。ただ多くの命が失われたことに今村は「無念の思いを深くした」という。  

その後、積極的にメディアにも登場し、コメディアンを演じ、自分を通して地震に注意を向けさせた。また自費も加えて観測所の数を増やした。特に子供たちへの防災意識向上に尽力、小泉八雲の英文を訳した中井常蔵の『稲むらの火』を小学校国語教科書に掲載させ、当時は国定教科書だから、津波について合計でおよそ一千万人の子供たちが「津波を避けるたには高い場所へ」と学んだ。

 

 その後1925年の但馬地震、1927年の北丹後地震、1944年の東海地震、また1946年の南海地震と過去の古文書からほぼ正確に予測した。また同年の「陸地測量部(現・国土地理院)」で、東海地震のとき、地震直前の地殻に独特な変化が存在することを偶然見つけた。実は現在の東海地震の24時間365日体勢の観測も、この変化データによっている。これが本当に正しいかどうかは、誰にも分かっていない。
 
 さて前述のとおり、大地震の予測は当たったものの多くの犠牲者を守れなかった今村昭恒は、確執のあった大森房吉博士の業績にも正確な評価を与え、「震災予防調査会報告」と名づけた、当時一流の学者・専門たちが一年半をかけて徹底的な調査研究を行い、これをまとめたもので、全五冊からなる大判箱入りの詳細で精密な内容となっている。(岩波書店刊)

 

 これに関与した文人でもあった寺田寅彦・理学博士は「関東大震災の大災害は、歴史的に考えれば前例が繰り返されたに過ぎない」、として、「大地震は大地が激しく波打つという同じ物理的現象で、この報告書を今後起こる地震の教訓として欲しい」、と切々と訴えている。

 この内容については前々回に詳しく述べたが、発火原因(なぜかNHK特集でも七輪の火の不始末としている)や、また避難時の持参品など、常識と違う点がある。もう一度眼を通していただき、科学的とはいかなる態度かをご了解いただき、もし首都を大地震が襲った場合は、自己責任で、ご自分の命を守っていただきたいと願う。吉村昭氏の岩手県田野畑村(明治29年の三陸津波で50メートルとの証言があった)での講演会からの抜粋から、地震時の避難方法のポイントを再度書かせていただく。


引用開始

 私は、大津波と同時に、明治以来最大の災害である関東大震災について調べて、ドキュメントとして書きました。私は東京生まれですから、この関東大震災については父から何度も聞いております。(中略)つまり、関東大震災は火災による大災害なのです。死者は七万名です。(中略)横浜の死者は二万三千人です。

 『関東大震災』を書くにあたって、体験者は私の父をはじめ、たくさんおりました。それからいろいろ手記、新聞を調べながら書いたのですが、関東大震災を調べて、私は多くのことを知りました。
 

 震災後、その当時の一流の学者たちが集まりまして、震災について調査をして膨大な報告書を作っております。報告書は、今後起きるであろう大震災に対して、こうすべきである、という対策を示したものです。


発火原因は七輪ではない

 まず第一は発火原因です。「地震が起きたらすぐ火を消せ」、とされています。それはたしかにそうでしょう。(現在は一定以上の揺れを感知するとガス供給が自動的に止まる)。大震災が起きたときは午前十一時五十八分で、ちょうど昼飯前ですから、炊事をしていた。七輪の火とかそういうものが火災の発火原因となったと、父は言っておりました。これが一般の定説になっております。
 しかし、学者たちの調査によると、それはごく一部にすぎない。てんぷら屋から火事が起きたという一例がありますが、他はすべて、意外なことに薬品の落下なのです。工場、学校の理科教室、薬品会社、そういうところで地震によって薬品が落ちた。それからの発火が最大の発火原因なのです。
 (注:筆者の亡母は小学校六年生で、神田の「芝」で被災したが「急に自分が空中に放り出されたようで、何がなんだか全くわからず、気づいたら、落下した土壁の向こうに人が歩いているのが見えた・・・・・・火を消すなんて絶対にできない。また「怖い」と思う地震は大丈夫だ、とも話していた。また火災は「ずいぶん後になって遠くで燃え出した」と話していた。)

 

 

 たしか宮城県沖地震だったと思いますが、私はちょうど近くの町のデパートでエスカレーターに乗っておりました。そのエスカレーターがガチャ ガチャ 揺れるのです。私はすぐにテレビを見ました。すると、東北大学の理科教室から煙が出ていました。私は、ああこれも薬品の落下だな、と。そういう震災のときは、常に同じことが起きる。それを学者は指摘しているのです。(初期微動の秒数を八倍するとおおむね震源までの距離がわかるそうだ

 

 『関東大震災』というドキュメントを書いたあと、九月一日が震災の日というので、NHKテレビの特別番組に私も呼ばれて行きました。そこに東京都の災害部長という人が来ていて、その人と話したんですが、とんちんかんなんですね。

「発火原因はなんですか」
「それは七輪の火です」
「そのほかにありませんか」
「いや、全然ありません」
 話にならないのです。その膨大な報告書を東京都の責任者が読んでいない。それは岩波書店から出ていて、私も持っているのです。そういうものを災害の部長が一切読んでいない。
 震災があったときに怖いのは薬品で、学者たちは落下防止策として、棚をチャントしろとかいうことを細々と書いている。それを今もって実施していないのです。


リュックは危険だ!

 それから携帯品ですね。災害があったら携帯のリュックサックを背負って逃げろといって、デパートで売っています。私は東京大空襲に遭いましたが、私がリュックサックを背負って逃げようとしたら、父親が「何をもっているんだ。手ぶらで逃げるんだ」というのです。私も関東大震災の記録を読んだり、調査をして、はじめて父の言うとおりだということがわかったのです。

 リュックサックというのは可燃物なのです。火にあぶられたら燃えてしまう。女の人が逃げるときに髪が燃えるほど、加熱が強いのです。ですから一切持ってはいけないのです。(吉村昭氏も空襲の大火から逃げたが、大火とはすさまじいものだという。)
 


保存食はいらない

 よく食料をちゃんと貯えておけといいますが、あれもナンセンスです。凄い被害のところから逃げた人に聞くと、翌日の朝、炊き出しでちゃんとお粥を食べているんです。全部が全部焼けているわけではない。ですから、あんな非常食なんか、私は一切持っていません。それでいいんです。


道を確保せよ

 災害の時、一番大事なのは道路です。関東大震災のとき、家財をつんで逃げた人がたくさんいます。本所の被服廠(ひふくしょう)跡というところがあり、そこは広い土地ですから四万人が避難しました。そこに逃げた人が、実に三万八千人亡くなっています。この場所での死亡率は95%となりました。(中略)
 家財の山なんです。大八車で運んだ家財がいっぱいで、その中に人間が挟まっているようなものでしたが、それが全部燃えたんです。
 その大八車が家財を積んで道をふさいでしまった。消防車が通れないし、人も通れない。家財が皆燃える、ですから、道路は道として確保しなければいけない。
 

 このことは、江戸時代、すでにその教訓があるのです。当時、江戸時代の消防といいますと、今のような消防自動車はないから、破壊消防というやつです。いろは組という火消しはみんな鳶(とび)を持っていますが、あれは家を壊す道具なんです。家を壊して、そこを平らにすると燃え広がらない。それが当時の消火なんです。
 

 当時の奉行所はみな厳重なおふれを出しています。大八車で荷物を持って外に出るものは召し取る、また大八車の持ち主も獄に投じる、と非常に厳しい取締令が出ています。それは、道路が荷物でふさがってしまうと人が動けない。消防組も現場に駆けつけられない。災害の時、道を確保することが最も重要ということで、江戸時代の奉行所がそれに対して厳重な取締り令を出しています。(中略)

 

車のガソリンが怖い 

 それが現在ではどういうことになるか。自動車で逃げる人がいると思うのですが、自動車にはガソリンが入っていますから、これがすごい発火源になる。ですから、絶対に自動車で道に出てはいけない。道は道として確保しなければいけないのです。(注:筆者は反則する方は、拘留しその後免許取り消しでいいと考えます。またその意味で電気自動車の普及が待たれる

 阪神大震災のとき、テレビを見ていたら、(インタビューされた)トラックの運転手が「これから見物に行く」といったのです。あのときは見物の車がたくさんいて、そのために消防隊も身動きできない。救援のための自衛隊も行けなかった。道は災害にとってもっとも大切なものなのです。

                       以上

 

 2011年9月1日、東京都では環状七号線の内側には一切車を入れない、という訓練をした。わずか10分ほどの短いものだったが、実に適切な規制であると筆者は思った

 環状七号線の内側の住民のうち、95%が焼死するのは馬鹿げている。大震災では同じことが起きることは、寺田寅彦博士が幾度も繰り返し説いている。環状七号線の内側が、被服廠跡になることもありえる。すると環状八号線の内側とすべきかもしれない。
 あるとき、本当に24時間、実地訓練をしてみるのがいい。無駄に尊い命を失うのはもう沢山である。


 もうひとつ、ここで老人の経験則からくる指摘をお許し頂きたい。原発の停止から日本の天候がかなりおかしい。大雨はあったが、一時間に100ミリなんてなかった。また破壊的な竜巻などは、アメリカの話と思っていた。何兆円という国富を使い、化石燃料を燃焼させている。貿易収支を赤字にし、土砂崩れで何十人という国民が被害にあい続けている。日本の原発は安全であり、あんなもの凄いエネルギーに耐えた。速やかに再稼働して異常気象を止める必要がある。原発に対する不安は何十年もあるが、土砂崩れは幾度も起きる。                          


                  防災の日 のために。


雑誌文藝春秋社から「九月臨時増刊号」、『吉村昭 が伝えたかったこと』