(245)日本と西洋の入浴文化 | 江戸老人のブログ

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(245)日本と西洋の入浴文化

 

西洋のぬるい湯のこと

 安政七年(万延元年)に日米和親条約批准書をワシントンまで運んだ幕府の使節七十七名はボーハタン号に乗り、ハワイ(当時はサンドウィッチ諸島)に立ち寄ったが、ホノルルで入浴を希望した。

 記録には「出帆後、久しく入湯せざる故、旅館へ浴場を頼みしに、一人前半ドルなりという。出帆前に横浜では、一ドルの相場は、金三分の両替なれば、金一分二朱となり、ずいぶん高いとみな驚いたが、やむをえない。

 

 湯を沸かすと聞き、浴場に行ってみると、一間に九尺ばかりの所で、板の間であり、桶は細長く、幅二尺五寸、長さ五尺ばかり、深さは二尺ばかりだった。湯は桶で外から運んでくるが、熱国だからか、湯はひどくぬるい。日向(ひなた)に置いた水のようだった。そうはいっても二十日ばかりも入浴していなかったし、ハワイは、日本の夏の気候だから、冷たいのも構わず、数日の垢を洗い、とても気持ちよかった。だいたいがこの地に限らず、西洋では、入浴は一人入るごとに湯を新しくするという。だから入浴料も高価になるという」
 
 また日誌『玉虫図録』のハワイの旅館浴室記録の所にも、「外国人は、いつも水で入浴するらしく、如露(じょろ)を設置し、上より水をたらし、直(じか)にかぶるらしい。この時は日本人だからと湯を使ったらしいが、まあ冷たいこと冷たいこと、水のようだった」と、外人のぬる湯の習慣を記している。
 他にも文久三年版『奇談』に、
 「横浜の異人、朝、目を覚まし、すぐに入湯するなり。その湯のぬるき事ひなた水の如し。なかには夏でも冬でも、水だけで入浴する者もいるらしい」と記している。
 
 以上は『明治事物起原』石井研堂氏の巻七 ちくま学芸文庫からだが、一方、中野明氏の『裸はいつから恥ずかしくなったか』新潮選書には、日本人の好む入浴温度に外国人が驚く記述が見られるが、その前に、「古くは入浴というものに対しヨーロッパ人も頻繁にお湯に浸かっていた。混浴もあった。ところが、中世の末期からペストが猛威をふるうと、「熱と水のために皮膚に裂け目が生じ、そこからペストが身体の中に滑り込む」という迷信がはびこった。このためたくさんあった街の風呂屋は一気にすたれてしまう。

 加えて入浴は体力を低下させるとも信じられるようになり、「めったに行われない習慣」となる。「十八世紀末のカトリック諸国では、たいていの女性が一度も入浴することなく死んだ」という、信じられない指摘もある。こうした偏見は、日本が幕末期を迎えた頃にはまだ諸外国に残っていた。1897年になってもフランス女性は、一生に一度も風呂に入らなかったともいう。
 

 では、かれらはどうやって清潔な身体を維持していたのか。答えは乾いた布で身体を拭くこと、それに清潔な下着である。こうしていれば、入浴をしなくても大丈夫という考えだった。明治政府のお雇い外国人で、言語学を専門にしたバジル・ホール・チェンバレン(東京帝大で日本人に日本語を教えた)は次のように書いている。「ヨーロッパ人の中には日本人のやり方のあらを探そうとして、『日本人は風呂に入ってから上がる時、また汚い着物を着る』という者がいる。なるほど旧い日本人には、毎日下着を更えるヨーロッパの完全なやり方などない。しかし、下層階級の人でも、身体はいつも洗って、ごしごしこするから、彼らの着物は、外部は埃で汚れていようとも、内部がたいそう汚いなどとは、想像も出来ないのだ」。頻繁に入浴して汚れた服を着るのか、入浴せずに下着だけ着替えるのか、いずれが清潔なのだろうか。

 

 それはともかく、十九世紀になると、ヨーロッパ人の入浴に対する考え方も微妙に変わってきた。身体の洗浄に「水の動きを利用すべきだという意見」が強くなってくる。こうして水浴施設すなわちプールが川に作られたり、シャワーが考案されたりする。これによりフランス人兵士は、かって「一年のうち八ヶ月を身体の表面に一滴の水もつけることなく過ごし」ていたが、「1889年、一ヶ月に二度、兵士は潅水が可能」になった。簡単に言うと、少しは暖めた水を一列横隊に並んだ兵士の身体に消火栓の放水の要領で浴びせた。
 
 日米修好通商条約のときに尽力した、あのタウンゼント・ハリスが記しているが、「日本人にとって、外国人が水を浴びる習慣、特に寒い時期の水浴は非常に奇妙に写ったようである。」と述べて、「日本人は私が冷水を浴びるのを見て、大変に驚いている。ことに今朝のように寒暖計が五十六度を示しているときに」。ハリスの言うのは華氏で、摂氏だと13.3度、下田だと三月頃の気候だろうか。厳寒とはいえないものの、花冷えするこの時期、水浴びはちと寒い。

 

 反対に外国人にとって、熱い湯につかる日本人の姿はきわめて奇妙に写った。また、健康にも極めて悪いと考えた。幕末に長崎で西洋医学を日本の俊英らに伝授したオランダ海軍軍医、ポンペは、日本人の入浴の弊害として、入浴の度数が過ぎること、湯が熱すぎること、入浴時間が長すぎることを指摘している。「湯の温度はときとして手がつけられぬほどの高温であり、摂氏五十度というのはザラである。時にはそれ以上ということすらある。日本人が風呂から出るところを見ると、ちょうどゆでたてのエビのようだ。日本人はこのお湯の中に十五分から三十分くらい入っている」。摂氏五十度は少々熱すぎとしても,当時の外国人は、入浴の文化の違いについて、男女の混浴ばかりでなく、湯の温度にも驚いたのだ。

 男女混浴については、呑んだ時などに親しい友人たちが「江戸の町には混浴はなかった」と反証を挙げるのだが、江戸は広いから「そういう湯屋もあった」というしかないが、例の松平定信の「寛政の改革」の折に「男女入り込み湯停止」と、厳しい禁令が出たと『守貞謾稿』にも記録がある。だがそんな話は「何処の国か?」といったほどであり、全体としては混浴だった。
原因は明快であり、キリスト教の有無だった。アダムとイヴの例えではないが、カトリック諸国では子供の頃から「裸と性」が強く結びつき、おそらく英国 のビクトリア女王の時代あたりがもっとも厳しかったのではないか。
 

西欧人が教養高い日本人にこの件について尋ねたところ、「当たり前だろう、風呂に入るには裸になる。男女の身体は少々違う。そんな違いに性欲を感じるとは、西洋人とはなんと好色なのか・・・・・・」と呆れられたという。簡単にいうと顔を隠す人はいない。見えてあたりまえである。顔を見ていちいち性的に興奮するとは、「なんとまあ西洋人は・・・・・・」との話があった。
 

田中光顕という人は、坂本竜馬と妻のお竜さんの三人で混浴し、竜馬の背中には毛がもじゃもじゃと生えていたと記している。エドワード・モースは日光・湯元温泉に行った時、街道に足場が悪いところがあり、背後から歩いていた美しい娘二人に手を貸そうとしたが、やんわりと断られた。「ゴメンナサイ」といって丁寧に断った。
 

その翌日、湯に入ると「このとき桶の中から『オハヨー』という朗らかな二人の声がする。前の日の二人の遠慮深い美少女二人が、たまたま二人で湯に入っていて、私に気さくに声をかけたのである。ビーナスのように」と天使に会ったように嬉しかったと記している。
 混浴の習慣があるときから消えたのは、西欧人が妙な視線でジロジロと見つめるのを嫌った日本女性たちが肌を見せなくなったためと、日本近代医学の父、ポンペが記している。


引用図書:『明治事物起原』石井研堂 ちくま学芸文庫 『裸はいつから恥ずかしくなったか』 中野明著 新潮選書