(148)もうひとつの樺太真岡郵便局事件 | 江戸老人のブログ

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(148)もうひとつの樺太真岡郵便局事件


「樺太終戦ものがたり」と名づけた戦争記録の連載記事がある北海道の新聞社で始まった。一回につき四百字詰め原稿用紙で五枚づつ、通常の業務をこなしながらで辛かったが、金子は樺太生まれだった。祖母が、明治38年日露講和条約で日本の領地となった南樺太に開拓民として渡り、やがて結婚して彼の母を生んだ。金子はその長男として樺太の豊原でうまれ、小学校、中学校時代を樺太で過ごし、予科練習生を希望して樺太を去った。
 終戦後復員した金子は、樺太への道が完全に閉ざされていると知った。父母姉妹に会いたく、樺太に最も近い北海道北端の稚内にも行った。同じような境遇の人々が稚内に多数集まっていることも知った。樺太に渡る密かな道があることをも知った。密航船である。闇夜を選び宗谷海峡を渡り、旧陸海軍が遺留した魚網、食料、
ガソリン 、石炭などを倉庫から盗み出し引き返してくる。空の船に樺太行きを希望する者を一名二百円で運んでいた。

 樺太ではソ連軍の犯罪が戦争の名のもとに行われた。八月十五日の終戦以降も、ソ連軍の攻撃は続行、停戦を申し込んだ日本側軍使は射殺された。多くの日本兵が砲火を浴びて戦死した。非戦闘員は、ソ連軍の殺害、略奪、暴行を受け惨状は目を覆うものがあったという。金子はたくましく生きた。炭鉱、千島方面で密漁をする漁船に乗り、またダフ 屋、かつぎ屋で警察に留置されたこともある。三年後、突然、彼のもとに父母弟妹が無事に樺太から引き揚げてくるとの通知がもたらされた。狂喜した彼は函館に行き、引揚船を降りた両親たちと再会し抱き合って泣いた。母が土産といって金子に手渡したのは、一切れの黒パンだった。それまでの三年間を飢えから逃れるため必死で過ごした生活は、彼の神経をいつの間にか強靭なものとし、それが新聞社に入社してからも記者として執拗な取材活動をとらせることにもなっていた。


樺太戦は、昭和二十年八月十五日、日本がポツダム宣言 受諾による無条件降伏を宣した終戦の日以後、本格的に展開された。
 まず昭和二十年八月十一日、ソ連軍は、樺太の日ソ国境を突破し日本軍守備隊と交戦、同十五日以後も攻撃を続行した。そして翌十六日朝には、艦砲射撃と爆撃の援護で樺太西海岸の恵須取町に上陸、さらに八月二十日朝には真岡方面に上陸した。真岡付近にあった歩兵第十五連隊第一大隊では、連隊長の命令で停戦交渉の軍使を派遣したが、ソ連軍は彼らを射殺一般避難民にも銃爆撃を浴びせかけた。やむをえず日本軍も反撃を開始、同方面一帯に激戦が展開された。八月二十三日、連隊長は「俘虜トナルモ停戦スベシ」の師団長命令に従うため軍師を派遣したが、これも射殺され、連隊長自ら停戦交渉にあたった。

 

もし北海道、東北などの日本軍が援軍として樺太に駆けつけると、日本は各地で連合 軍と再び戦闘を開始することになる。本土決戦に備えていた日本軍には十分な戦闘継続の余力が残されていた。ポツダム宣言 受諾を根底から覆す大混乱が予想された。(武器を置いた日本軍が日本国内で米軍など連合軍と再び戦闘を始めることになる。)その日、ようやくソ連軍の攻撃はやんだ。樺太各地で日本軍は続々と武装解除、八月二十八日には全部隊が武将解除を完了、全島の戦闘は停止した。

 この二十日ばかりの間に何があったか?金子は「樺太終戦ものがたり」の取材を開始、多くの人に会い、体験談を新聞紙上で紹介した。一人での取材だったから手紙を書いたり送って貰ったりした。
 「樺太終戦ものがたり」連載への読者の反響は大きかった。読者の中には自ら体験記を送ってくる者もいた。陸海軍将兵の戦闘体験の記録から、話が一般避難民の話に移ると、体験者らの回想は読者の胸をしめつけ、故郷の樺太は血と汚辱に満ちたものと明らかになって来た。
 

非戦闘員はソ連軍の越境と上陸を知り、北に向かって逃避行を続けた。そこに艦砲射撃や銃撃が加えられ、死傷者は樺太の山野を埋めていった。男たちはソ連軍と銃や槍で戦った。老幼婦女子は銃撃にさらされ逃げまどった。避難民の立ち去った後には、幼児の死体や女の死体に混じり自殺遺体も数多く転がっていた。
 惨劇は後を絶たなかった。掠奪、暴行が昼夜の区別なく繰り返され、それを恐れて多くの人々が自決して果てた。親は子を殺し、自らも自殺をはかる。発狂者が意味もわからぬわめき声をあげて走り回った。金子記者はそうしたむごたらしい話の一つ一つを書き留めていった。
 
 金子は、ソ連領との国境から約百キロ南方の恵須取地区で戦渦に巻き込まれた人々からの体験談を集め始めた。恵須取町は支庁の置かれた人口三万の西海岸にある要地で、ソ連が参戦した折には重要な軍事拠点になると目された場所である。
 この地区に対するソ連軍の軍事行動は、八月九日夜の偵察機飛来に始まり、十一日から本格的な空襲が開始され、翌十二日には同町浜市街に火災が発生、守備隊は老幼婦女子に対し避難命令を発令した。

 恵須鳥沖合いにソ連艦艇が出現、上陸用舟艇が発進した。同地の特設警備第三百一中隊は、これを砲撃して撃退したが、恵須取町の浜市街は艦砲射撃で完全に焼滅した。
 翌々日の八月十五日正午、天皇の終戦を宣する放送が聴取されたが、翌十六日早朝、恵須取町北方十キロの海岸に、艦砲射撃と航空機による銃爆撃の支援のもと、ソ連軍が上陸を始めた。この方面には特設警備隊の一小隊が配置され、これに民間人で編成された義勇戦闘隊が加わった。隊といっても分隊長が拳銃か小銃をもっているだけで、他は猟銃、または竹槍という貧弱な武装だった。

 

天皇の放送によって終戦を知った恵須取支庁長は、義勇戦闘隊長を兼務する塔路町長・【阿部庄松】および警察署長・【松田塚一】に、「ソ連軍への抵抗をやめ、町民を誘導して避難すべし」という主旨の命令を出した。これにより義勇戦闘隊は、約百名の死者を出しながらも、住民を山間部へ避難させることに勤めた。しかしソ連機は避難民へも銃撃を繰返したため多くの人々が殺傷された。
 
 次に金子記者は道内に住む生存者を求めて取材を続け、「大平の悲劇」という新たな項目を設け、大平町を中心とした惨状の執筆に取り組んだ。
 ソ連側の戦史によると、塔路町付近は上陸後二十四時間以内に占領したというが、特に大平付近での義勇戦闘隊による守りは堅く、激戦が展開された。事実、同地区の義勇戦闘隊員の戦死率は他地区より高く、大平の住民も戦火に惨死した者が多かった。

 そうこうするうち、金子記者は思いがけぬことを耳にした。最初にこの情報をもらしてくれたのは、当時の生存者の一人、江別市に住む【高川(旧姓岩崎)うら子】という女性で、【大平炭鉱病院】に勤務していた「高橋という婦長」をはじめ、看護婦多数が集団自決をして果てたという。

 樺太戦では、真岡郵便局(電信局)で九名の若い女性電話交換手たちが劇薬をあおって自殺をしたという悲話が伝わるが(真岡郵便局事件)、他にも同じような集団自決があったことは彼にも初耳だったし、戦後の記録にもない。高川うら子は「無事に帰国できたものの義務として、社会にこの事実をひろく伝えたい」と金子に語った。
 さらに音別町に住む山ヶ鼻弘という人から、高川うら子の話を裏づける手紙を貰った。これによると、自決した一人である【瀬川百合子】という看護婦の家族とは隣同士に住む間柄で、惨劇があった後、自決者の遺体埋葬地に林立する墓標も眼にしたという。その折に死に切れず生き残った看護婦の一人が、釧路に住んでいるらしいとの消息も書き添えてあった。
 

金子はこの悲劇を追って、生存看護婦の跡を洗い始めるが、さっぱり進展しなかった。彼は北海道の主要な病院、ことに炭鉱病院へ百通にも達する照会の手紙を書き送った。何処からも返事はなかった。
 断念しかけた頃、【赤平炭鉱病院】の看護婦から一通の葉書が寄せられた。そこには、該当すると思われる女性が、小樽に住んでいるとの話を聞いたことがあると記されていた。金子記者はすぐに小樽市内の病院、医院に手あたり次第電話をかけた。【北生病院】の事務員が、戦時中、樺太の大平病院に勤務していた経歴の女性が今も北生病院にいると話した。【寺井タケヨ】という看護婦だという。金子はすぐに寺井タケヨに手紙を出し、会って話を聞きたいと依頼したが、何の返事もなく、再び電話すると寺井は「電話にも出たくない」という。金子はバスで小樽に行き、北生病院にいくと一分でも二分でも会わせて欲しいと伝えた。婦長は了解し寺井を説得したが、「会いたくない」の一点張りでどうしようもなかった。

 どうして?と考える金子記者は掲載済みの「樺太終戦ものがたり」の取材中、何度か同じ目にあったことを思い出した。いったんは取材に応じる返事を貰ったのに、実際には取材できなかったことが多かった。たとえば当時樺太の真岡で酒造業を営んでいた一家で、六十四歳の戸主・清次郎が屋外でソ連兵に射殺され、二人の息子とそれぞれの妻、そして幼い子供五人が残されたが、二人の妻たちは、このままではソ連兵に射殺されるか陵辱されると考え、絶望して死を決心した。このため一家心中を企て、それぞれ自らの子を絞殺した。自分たちも後を追うべく縊死をはかったが、乱入したソ連兵が家に火を放ち、その機会を失った。

この話を聞くため問題の妻の一人に面会しようとしたが、二十年をへた今(取材時点)も、その話をすると、妻は必ず卒倒し失神するという。夫の善作がためらいがちに金子から取材申し込みがあったことを口にしたときも、妻は短い叫び声をあげると仰向けに倒れ、意識を回復してからも布団をかぶって泣き喚いていると、夫が断りの電話をかけてきたことがあった。
 

 長い歳月を経ても、戦時の記憶に身をさいなまれている多くの人々が生き続けていることを金子は知った。その傷痕を逆なでするようなことが、果たしてよいことなのかどうか、自責の念にも駆られた。結局それ以上の取材は断念したのだった。
 
 もと大平病院の看護婦、【寺井タケヨ】が新聞記者である自分に会うことを避けているのは、子供を殺した若い母親と同じで、思い起こすことも苦痛な記憶があるからに違いない。彼は、周辺取材を試みたが、そこで取材をやめた。新聞連載の「樺太終戦ものがたり」に大平の集団自決の概要を書き記し、末尾に「・・・これ以上詳しいことは、いろいろ手をつくしたがわからなかった。生存者の一人を探し出したが、昔を思い出したくないと断られた。一生自分の心のうちに秘めていこうとする心情を思い、深く触れることを避けた。ご了解を願う」と書きとめた。彼は寺井タケヨと会うことを断念した。

 

 「樺太終戦ものがたり」の連載は、昭和四十年十二月五日、二百七十七回を最後に好評のうちに終了し、連載から五年の歳月が流れた。昭和四十五年六月中旬、かれは【深谷勝清】という北海道のテレビ局ディレクターの訪問を受けた。なんでも終戦の日にドキュメンタリー番組を流したいとのことで、これは深谷ディレクターの「ラジオからテレビへの転換」の最初の仕事だという。とうぜん戦争に関する内容を放映する企画を立てたが、適当な素材が見つからず、「樺太終戦ものがたり」の執筆者であった金子記者に、樺太関係の素材を教示して貰うためやってきたのだ

 金子は記憶をたどりながら「『樺太終戦ものがたり』を書いた記録の中で、どうしても埋まらなかった部分がある」と、深谷に告げた。「その部分を私に埋めさせてもらえませんか?」と深谷がいった。金子はうなずくと【大平炭鉱病院勤務の看護婦集団自決事件】のことを口にし、それを記述したスクラップも見せた。金子の場合はテーマが広く、また一人だけで調査にあたったが、深谷の場合は【集団自決事件】だけに絞り、テレビ局としての機動性を十分に発揮して多くの費用も取材につぎ込むことができる。金子は、深谷の態度から考え、看護婦集団自決事件の全容が明らかにされるのではないかと思った。期待をいだくとともに、ジャーナリストとして貴重なものを譲り渡してしまったような淋しさも感じた
 

文字数が超えるため、以下は後編に続きます。



引用本:『下弦の月』吉村昭 著のうち【手首の記憶】から。毎日新聞社 1973年刊