(149)続 もうひとつの樺太・真岡郵便局事件 | 江戸老人のブログ

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(149)続「もうひとつの樺太・真岡郵便局事件」

 

その年の八月十日頃、新聞社に深谷ディレクターが訪ねてくると、金子に取材結果を教えた。予想していたとおり、深谷は集団自決の生存者数名に会い、その全容を確実に探り出していた。最初は誰もが取材を拒否したという。「生きているのが恥ずかしい」と語ったそうだ。取材の同意を得るのが大変で、とにかく誠意をつくして説得にあたったという。そして「実は、終戦の日の八月十五日午後四時から特別番組としてこの事件を放映しますが、その前に金子さんが記事にして下さって結構です。この素材は、金子さんから貰ったものですからね」と笑った。

 

金子は「借りを返すわけか・・・」と微笑した。深谷が同系列の競争紙には流さず、自分に伝えてくれたことが嬉しかった。
 さらに深谷は金子が知っている人たち以外の生存者にも会っていた。取材した音声テープを金子に聞かせてもいいといった。金子は申し出に感謝し、深谷の局におもむき未編集のテープを聴いた。金子はメモに鉛筆を走らせた。

 【今谷徳子】は、当時十六歳、太平炭鉱病院に勤務してから二年しかたたぬ若い看護婦だった。看護婦は、三十三歳の【高橋ふみ子婦長】を最年長に、十代から二十代の【二十三名】で、全員が寮で起居を共にしていた。
 八月九日、ソ連参戦によって樺太は戦場と化し、北方地域からの避難民が大平の町に流れ込み、南下する人の列が続いた。銃爆撃で傷つく者が多く、大平炭鉱病院にかつぎこまれた。

院長は応召し医師もいなかったから、負傷者の手当ては、すべて彼女たちの手に託されていた。八月十五日、天皇の終戦を告げる放送があったが、樺太に終戦はなかった。翌十六日未明、大平の町はソ連機の激しい銃爆撃にあい、北西方にある塔路にソ連軍が上陸、塔路の住民が大平町になだれ込んできた。
 

大平炭鉱では、所員に避難命令を発し、所員らは東へ去った。炭鉱病院に収容されていた百名近い軽症者たちも、午後には東方へ移送されていった。避難民が充満し銃爆撃の音につつまれていた大平の町では、夕方近くには人影もたえた。北方からは砲弾の炸裂音や銃の連射音がするだけで、町は静まり返り、残っているのは自分たち【看護婦二十三名】と、壕の中に横たわる【重傷者八名】のみらしい。徳子たちは社の命令で避難しなければならないが、看護婦としての責務から八名の患者を放置はできなかった。
 ソ連機が避難民に銃撃を浴びせていることからも、侵攻してくるソ連兵が自分たちを陵辱し、殺害する可能性が高い。患者たちはそうした事態の起こることを予想し、「早く逃げてください。若い女である貴女たちを犠牲にはできない。早く逃げてください」と傷の苦痛に堪えながら口々に叫んだ。
 西日が傾き始めた頃、【藤原ひで】が三キロほど先にソ連兵の一団を視認した。「早く逃げろ、逃げるんだ」重症患者たちが一斉に叫び始めた。
 

 高橋婦長は、看護婦たちに重症患者へ十分な食料と薬品の配布を命じた。看護婦たちは後ろめたさを感じながらも指示された品物を重傷者へ配った。その間、婦長と副婦長の片山(現姓・鳴海)寿美、石川ひさが劇薬類やメス、包帯、ガーゼ 類を鞄に詰め込んでいた。
 すでに日が暮れていたが、周囲には砲弾の炸裂する音が絶え間なく、銃撃音も聞こえてきた。二十三名の看護婦は点呼を終えると患者たちに目礼し、高橋婦長に引率され、壕を抜け出ると一団となって大平の町を南へ走った。看護婦たちは励ましあいながら山路を南へと急いだ。午前零時を回った頃、山中で家族連れと出会ったが「駄目だ、この先にソ連兵がいる」と彼女たちに告げた。徳子たちは、婦長のまわりに身を寄せあった。避難の時期を逃しソ連兵に退路を遮断されてしまったらしい。エンジン音に続いて装甲車が現れ、徳子たちは草むらに身を伏せた。数十名のソ連兵が列になって移動して行った。
 
 徳子たちは高橋婦長の周りに這いよると、その顔を見つめた。婦長の表情はかたく、考え込んでいるようだったが、ひとつの決意を抱いたらしい。婦長が、副婦長の片山寿美と石川ひさを呼ぶと、何かを話し始めた。しばらくして婦長らが徳子たちの側にやってくると、「この先、無事で逃げられるかどうか分からない。むしろ敵につかまって惨めなことになる公算が大きい。私にもあなたたちを守っていく自信がなくなった。きれいな体で親御さんたちへお返しすることはできそうもない。日本婦人らしく一緒に死のうと決まったが、貴女たちもついてきてくれるか?」 と沈痛な口調でいった。

 徳子は婦長の申し出が予期した通りで、恐怖はまったく感じなかった。婦長がよろめくように樹林の奥に歩き出した。丘の上の大樹の下で立ち止まり「一緒に死にましょう」といった。誰からともなく櫛で髪の乱れを直し、同僚の髪にも、たがいに櫛をあてた。
 婦長が、「君が代」を低い声で歌い、つづいて「海ゆかば」が歌われた。相互に別れの挨拶が始まった。誰からともなく徳子に「山桜の歌」を歌って欲しいという声がもれた。それが決別の歌になることを意識しながら、徳子は星空を見あげて唄った。


ローソクに火がともされると、風呂敷で光が漏れぬよう工夫し、タビナール、パントポン、カルモチンなどを薬包紙にわけ注射薬の準備をしメスをそろえた。徳子は同僚たちと樹木の周りに身を横たえた。自決が婦長の手で進められていった。一人一人に注射針が刺しこまれ、水筒の水で睡眠薬を多量に服用した。それだけでは蘇生の可能性があったから、婦長が手にしたメスで皆の手首の血管を切っていった。婦長はすでにメスを使ったらしく手首からかなりの血液が流れ出ていた。
 
 どのくらいの時間がたったのか、徳子は喉が渇き、水が欲しいと叫び続けていた。陽光の熱さを顔に感じた。身を起こそうとしたが頭が土に張り付いたように動かない。徳子は顔を動かしてみると、傍らに十七歳の【佐藤春江】が目を閉じて身を横たえていた。体をゆすったが、すでに冷たくなっていた。愕然として目を大きく見開いた。自分だけが生き残ってしまったらしい。ふと、かすかなうめき声が聞こえた。寺井タケヨが身もだえしている。寺井は毒物を嘔吐したらしく、傍らの土がひどく汚れていた。そのとき、彼女の眼に三人の同僚が這い寄ってくるのがみえた。二十三名のうち五名が生き残ってしまったらしいが、彼女たちにとっては不本意であった。「死んだほうがいい」、と口々にいいあった。

 

八月十八日朝、絶命していたのは婦長の高橋ふみ子(33)、副婦長石川ひさ(24)、看護婦の久住きよ子(22)、真田かずよ(19)、佐藤春江(17)、瀬川百合子(16)の六名だった。他の十七名は奇跡的にも生存していた。が、救出された看護婦たちは、例外なく睡眠薬の注射あるいは服用と、手首からの激しい出血で衰弱し切っていた。現地製材所の男たちに抱えられても、「放っておいてくれ」と丘から降りることを拒んだ。男たちはその懇願を黙殺して彼女たちを背負うと丘を下った。
 付近一帯はソ連軍の占領地域になり、日本軍との間に停戦交渉も開始されていた。そして、八月二十五日、南樺太の日本軍は武装解除を終了、地区の戦火はやんだ。

 十七名の看護婦たちは、六名の同僚の遺体をひそかに荼毘に附し、形ばかりの葬儀も行った。その席に、高橋婦長の父親がやってくると、「私の娘が死んでくれて本当によかった。責任者として生きていて欲しくなかった」と、涙ぐみながら挨拶し、看護婦たちは泣いた。 
 生き残った看護婦らは食事もとらず、泣き続けていた。手首には包帯がまきつけられ、蘇生後、縊死をはかった者の首には青い痣(あざ)がはっきりと記されていた。看護婦たちは、骨箱を抱いて避難していた一般人とともに大平の町に戻り、病院勤務をするようになった。

 ソ連軍は町の中へ入ってきたが、彼女たちが自決をはかったことをいつの間にか知ったようだった。手首に白い包帯をまいている彼女たちに畏怖を感じるらしく、近づくことも声をかけることもなかった。
 一年が過ぎ【高橋婦長ら六人】の命日がやってきた。生き残ったもの全員で現場に行ったが、自分たちが
した血が大地を肥沃にしたのか、何もなかった場所に身の丈を越す雑草が生い茂っていた。

 上記の詳細を知った金子記者は、その翌朝、日高に向かった。副婦長であった片山寿美に会いたかった。彼女は救出されたあと結婚し、昭和二十二年七月に北海道に引き上げてきた。彼女は生存者中の最年長者であった。
 

寿美の家を訪れた金子は、その家のあまりのひどさに驚かされた。人家と呼ぶには程遠い三畳間ほどの板張りの小屋だった。寿美は自分から人生を捨てているらしい。生きる喜びを自分には禁じているようだった。琴美は自決という過去の記憶の中に生きていた。自決の日から二十五年間(取材時点)、五十二歳になった彼女の生活は、手首の記憶から断ち切れないでいた。「私はあのとき死んだほうが良かったのだと今でも思っています」と、寿美は低い声で金子に語った。
 

彼女は救出された後、六名の自決者の遺骨を遺族に返すまでは生きていなければならぬと思った。寿美は、激しい自責の念に苦しんで日を過ごした。十年勤務という経歴をもつ老練な看護婦は、確実に死ぬ知識を持っていたはずだった。看護婦としての自分を羞じた。

 薬物の量と手首切開による出血量の違いで、寿美は死を免れた。だが彼女にとって不本意な蘇生だった。生き残ってしまったことは、自分の内部に怯みがあったからではないのだろうか。少なくとも第三者にそのように解釈されても仕方がない。彼女は遺骨が、すべて遺族に手渡された日を自殺の日とあらかじめ決めていた。
 

二週間ほどのちの八月末、彼女は父の訪れを受けた。父は山中に逃れてから日ソ両軍の停戦を知り恵須取町に戻ってきたが、そこで大平炭鉱病院勤務の看護婦が集団自決したことを耳にし、せめて遺骨でも拾おうとやってきた。無言で父と会った時、「この老父のためにもう少し生きてみよう」と思い直した。「死のうと思っていながら死にそびれると、もう死ぬことができないんですね。それが私には情けなくて・・・」と、寿美は視線をひざに落とした。金子は、寿美が二十五年間、自らをさいなみ続け、夫も妻の苦しみを理解して、ひっそりと共に生き続けたことを知った。死ぬほど辛い日々が続いたのだろう。
 
 八月十五日の朝刊に、金子が取材した看護婦集団自決の記事が大きなスペースをさいて活字になっていた。「樺太終戦秘話・うずく自決の傷跡」という見出しの下に高橋婦長以下六名の遺影が並んだ。またその日の午後四時から深谷の構成による「白い手首の傷跡」と題するドキュメンタリー番組が、テレビ局から放映された。
 鳴海琴美から新聞社に電話があったのは、その日の夕方だった。琴美は、「新聞もテレビも見ましたが、お話してよかったのかどうか、今でも分かりません」といい、遠路を訪ねてきてくれたことに礼をいった。そして死亡した【真田かずよ】の弟からこの機会に慰霊祭をやりたいという申し出があったことを告げた。
 「正直なところ私は気が進みません。慰霊祭をおこなってサッパリした気持ちになりたくないのです。私は、亡くなった六人の方に申し訳ないとお詫びしながらそっとこの世を去りたいのです。慰霊祭のような派手なことをして人目に触れたくもないですし・・・」金子は、世間から距離を置いたまま生涯を終えようとしている琴美に、説得しなければいけない義務のようなものを感じた。
「遺族からの申し出に協力するのが生き残ったものの義務ではないでしょうか」と熱っぽい口調で寿美を説いた。
「よく考えて、皆さんとも相談してみます・・・」と答えて寿美は電話を切った。
 

 金子は、寺井タケヨが頑なに取材を拒否し続けた理由が真に理解できたように思った。彼女を支配しているのは、「生き残ってしまった」激しい悔いの混じった羞恥なのだ。二十五年前の自決の日の記憶は、タケヨに人間としての正常な生活を許さなかったのだ。

金子は小樽市の路地奥に建つアパートの一室で、ひっそりと孤独な生活を続けるタケヨの姿と琴美の姿をしきりに思い描いた。


筆者のまとめ
 ソ連の侵攻は、戦争終了が決まってからだった。すると火事場泥棒であり、単に犯罪である。堂々と戦った相手ならば、「非情」もまだ許すことができる。日本はソ連とは戦っていない。ソ連が一方的に多くの日本人を殺害、非戦闘員に銃爆撃を加え、人々の心を追いつめた。
 アメリカの公表ではおよそ百万人のシベリア抑留者たち、理由なく殺害されたもの、真岡電信局で青酸カリをあおった九人の若い女性、職責を尽くそうとした大平炭鉱病院看護婦たち二十三名に何か手落ちがあったろうか。たとえ生き残ったにせよ死よりつらい記憶に一生のあいだ苛まれ、癌細胞のように一度しかない人生を蝕んでいく。あまりにも残酷な記憶は、執拗であり底知れぬ深いところから心を破壊していく。ソ連・ロシアの罪はまことに深い。



引用本:『下弦の月』吉村昭著のうち【手首の記憶】から。毎日新聞社 1973年刊