(134)日露戦争時のアメリカ
司馬遼太郎著『坂の上の雲』から引用します。
日露戦争をめぐってのアメリカの情勢というのは、多分に気分的なものであった。アメリカ のアジアにおける利害はフィリッピンを所有しているということを中心に常に計算され、シナをわけどりにしてこれを植民地化しようとは元来考えておらず、ただ、「門戸開放」ということを、伝統的にいい続けてきた。シナは独立国としてどの国に対しても平等に通商せよ、特定国のみが特定の利益をむさぼるべきでない、ということであった。
このため、国内世論は、いわば車夫馬丁の芝居評にも似ていて、弱いものに対しあくまでも加担してやろうというところがあった。ロシア
はすでにそうと察し、海戦後ほどなく、駐米ロシア
大使カシニーに対し、アメリカ
において同情世論を形成せよ、と命じた。
カシニーの世論形成法は、いかにもロシア
風であった。米国
における新聞という新聞を片っ端から買収してかかったのである。
たとえば、ロシア
に買収されたワールド紙などは露骨な反日論を掲載した。日本人のことを、「Yellow little monkey」とよび、日本人がいかに卑劣で、取るに足りない国力しかもっていないかということを書き、日本人はわれわれキリスト教徒の敵である、といったふうの、かっての十字軍時代の布告文を思わせるような論説まで書いた。
これに対し、金子がサンフランシスコに上陸したとき、ちょうどルーズベルト大統領の「局外中立」の宣言が出たときであった。金子はもともとこの根回しに自信のなかったため、上陸早々この宣言を読んで失望し、「とうてい任務を全うできない」と思った。かれは日本としては精一杯の機密費を持ってきたが、しかしロシアのように全米の新聞を買収しようというほどの金ではなく、最も有力な日本宣伝の武器としてかれが携えてきたのは、二冊の書物だけであった。
新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』とイーストレーキの『勇敢な日本』であり、このたった二冊の本で全米に親日世論を巻き起こさねばならないかと思うと、勇気よりもむしろ自分のみすぼらしさが先に立って、気おくれがした。
(筆者注:当時ロシア が「アメリカの新聞という新聞を買収してかかった」とあり、それができたということは、現在の日本でも、どこかの国が意図的に新聞その他を、買収することが可能といえよう。世界の情勢は、時代が異なっても、本質はそれほど違わないからだ。)
奉天会戦の日本の国力窮乏についてルーズベルト大統領は知りすぎるほど知っていた。
しかし同時に、日本人が慢心し始めているということも、日本の新聞の論調の総合されたものを東京の公使館から報告を受けて知っていた。
日本においては、新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道し続けて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られる羽目になり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚を抱くようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞が作り上げたこのときのこの気分が後には太平洋戦争まで日本を持ち込んでゆくことになり、さらには持ち込んでゆくための原体質を、この戦勝報道の中で新聞自身が作り上げ、しかも新聞は自体の体質変化に少しも気づかなかった。(日本が負けるシナリオの戦を持ち込んだのは日本国民と新聞などのメディアである。)
戦後、ルーズベルトが「日本の新聞の右傾化」という言葉をつかってそれを警戒し、すでに奉天会戦の以前の二月六日付けの駐伊アメリカ大使のマイヤーに対してそのことを書き送っている。「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国
やドイツ
その他の国に反抗するようになるだろう」というものであった。
日本の新聞は何時の時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に偏ることの好きな日本の新聞とその国民性が、その後も日本を常に危機に追い込んだ。
ルーズベルトは日本に対して好意を持った世界で最初の外国元首であったが、彼がいかに政治的天才であったかということは、日本が近代国家として成立して三十余年しかたっていないのに、その原型の本質を見抜ききっていたことであった。彼は日本のためにアメリカ
大統領であることの限界を超えてまで好意を見せ続けたが、しかし同時に彼の恐るべきこと(アメリカ
大統領としては当然だろうが)は、マイアーに出した手紙にでもわかるように、日露戦争後米国
は日本から脅威を受けるだろうと予言し、米国の存立のためには海軍を強大にしなければならないと説き、しかも「わが海軍は年々有力になりつつある。この優秀な海軍力が、日本その他の国との無用の紛争を未然に防いでゆくであろうという意味のことを言った。
(中略)「自分はロシア に対し、旅順陥落後ただちに講和に入ったほうが有利であるとといたが、ロシア はこの忠告をしりぞけて奉天会戦の苦痛を舐めてしまった。このことをロシア は後悔しているようである。」といい、次いで日本について以下のように言う。「日本は従来、今自分に(ルーズベルトに)講和の斡旋をさせようとして焦慮してきた。
ところが奉天会戦の勝利が日本人を逆上させてしまい、この会戦のあと、自分が日本に講和せよ勧告したところ、逆にこれを退けるという過失をおかした。自分の推理では、日本の軍人たちは償金と割地を要求すべく主張している」さらにルーズベルトはロシアの態度について「ところがロシア
は、日本に償金を払ったり割地したりする屈辱をきらい、いま航海中のロジェストウエンスキー提督の艦隊が日本海軍に対して打撃を与えることを期待している」といっている。(筆者注:ルーズベルトは日本海軍が勝利すると正確に判断していた。)
(筆者注:アメリカ にはいつも日本に対して好意を持つ者がいたことは事実であり、そういう有力者に対しては、日本はかえって母親に甘えるように「このくらいは大丈夫だろう」などと、素直に「正確で的確」な助言に従ってこなかった。フィリッピン周辺に戦争を広げた。とうぜん母親でないアメリカは激怒した。そのあたりが日本メディアと日本人の「特有の鈍感さ」であろうかと思えてならない。世界情勢は百年や二百年は変わらない。何がどうなっているか、何時の時代なのかを見抜く必要がある。)
引用図書:『坂の上の雲』司馬遼太郎著 文藝春秋社 第六巻 58,68Pから引用