(52)ひまごが書く徳川慶喜公 | 江戸老人のブログ

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ひまごが書く徳川慶喜公(157)

 

 徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)公は、天保八年(1873)生まれ、大正2年(1913)に七十七歳で没した。第15代徳川家将軍で【最後の将軍】として知られる。公の人生は将軍を辞めてからのほうが長い。将軍を辞めたのが30歳ほどであった。 

 

 駿府に移って30年ほど過ごすが、その間、趣味に没頭したがこれが半端ではない。好きなことを好きなように徹底した。羅列すると、①刺繍、②工芸、③陶芸、④写真、⑤油絵、⑥乗馬、⑦サイクリング、⑧ドライブ、⑨狩猟、⑩釣り、⑪投網、⑫弓、⑬能楽、⑭書、⑮和歌、⑯囲碁、⑰将棋の17項目があり、その他⑱フランス語(西周「にし・あまね」に習うが途中で諦めた)、⑲俳句、⑳日本画、あとは省略する。


 なんでもやってみたくなる性癖は、慶喜公の子ども時代からで、これは“ひ孫”の徳川慶朝(よしとも)さんへ遺伝したらしい。将軍家の血筋は、趣味もそれなりに上手くなる。ひ孫の慶朝さんは、気づいたらカメラマンになっていた。慶朝さんは曽祖父、つまり慶喜公の明治以後の趣味三昧の頃が、「いちばん幸福な時期だったろう」と書かれている。同感できる話だ。

 

 明治31年 慶喜公は名誉を回復同35年に明治天皇と会食、親しくお話し、積年のわだかまりが解けたという。明治帝も「安心した」と側近に漏らされたという。慶喜公は公爵を賜り、貴族院議員となる。

 このとき宗家とは別に、新しく徳川慶喜家を創設した。よって徳川家が二流にわかれた。第六天町(だいろくてんちょう:東京都文京区に敷地3000坪の屋敷を賜る。使用人は50人、専門の料理人や警備人までいた。

 広くて古い家だから、熱いものは冷めてしまう。カメラマンの、慶朝(よしとも)さんの母君は、もと会津のお姫様だから料理などしたことがない。「お袋の味」は望めなかったそうだ。しいていえば、女中さんの味だったという。もっとも大東亜戦争後はそんなこといってられず、なんでもやったという。


 歴史はうまくいかぬもの、大東亜戦争後、華族制度が廃止され、財閥解体による財産税でどうにもならず、家屋敷を物納したという。

 混乱の中、昭和25年(1950)に慶朝さんが生まれた。以上のべた理由で、将軍のひ孫には財産はなし。現在は「自分で稼いだ金」で買った一応マンションに住んでいる。慶朝さんは、最初の20年は広告会社のカメラマン、つまりサラリーマンをしたが、やがてフリーとして独立した。「好きなことを好きにやりたいタイプ」で、50歳過ぎて独身という。べつに“嗜好”なのではなく、結婚や家族が面倒に感じるらしい。


 この人の父親が、徳川慶光(よしみつ)公爵で貴族院議員、招集され陸軍二等兵として中国へもっていかれた。華族は率先して戦場に出たから戦死者も多いという。 病気ばかりしていたが、名前から「公爵で、貴族院議員で、二等兵」とわかり、驚いた軍の偉い人が見舞いにきたりしたが、特別扱いはなかった。「よく生き残った」という印象で、ソ連に抑留されるところを辛くも逃れ、やっと帰国できた。

 家屋敷を失い、低収入もなく相当苦労されたが、戦後を生きのび、町田に家を一軒買ったという。屋敷というようなものでなく、ごく普通の住宅という。


 

平成になってから、ひ孫の慶朝さんは曽祖父である慶喜公が撮影した写真を公表、また『徳川慶喜家へようこそ』を著し、NHKの大河ドラマが徳川慶喜を扱ったことで人気が出て、少し楽になったという。慶朝さんもどこか「お殿様」との印象を持つが、決して悪い意味ではない。鷹揚でどこか気品が漂う。

 

 食文化や料理に明るく、「インスタント食品(ファスト・フード)を大事にすべきという。戸時代の鮨、天麩羅、ソバ、味噌汁などもファスト・フードだ。食品加工会社は味について相当工夫をし、結構いい味を出している。うまく使うべきだという。ここは筆者と全く同じ考えだ。

 お仲間と低農薬米を造ったり、慶喜公の曾孫(ひまご)さんも、趣味を楽しんでいるようだ。面白いエピソードが書かれているから、書き過ぎぬ程でご紹介する。


曽祖父・慶喜公について


 イロイロなところで紹介された話だが、明治36年(1903)大阪砲兵工廠(国立兵器工場)で飯盒(はんごう)を入手、自宅へ持ち帰り、居間の火鉢で飯盒飯を炊く。これは美味いと毎日使うが、アルミニュームの害が気になり、尋ねてみると「銀なら大丈夫」といわれ、銀塊を送り砲兵工廠で銀製の飯盒を作らせて使った。司馬遼太郎の『最後の将軍』にも紹介されている。
 
女性にもてた曽祖父・慶喜公


 正妻に加え側室二名(自ら撮影の写真あり)、で子どもが10男11女の計21人ひ孫と違い曽祖父はもてたと書いているが、慶朝氏もハンサムで、さあどうだか・・・。
 新門辰五郎(しんもん・たつごろう)の娘、「お芳」も愛人で、鳥羽伏見の戦いから軍艦で、大阪城から江戸まで一緒だったという。お女中の娘たちとも何かあったようだ、とある。

 

 慶喜の父親、水戸斉昭、つまり水戸烈公はとんでもなく女好きだったから、これが遺伝したか?と書かれている。水戸偕楽園では毎年、家臣ともども梅見の会が行われるが、家臣の娘たちは髪型を島田髷(独身のしるし)から丸髷(既婚を意味する)に変えて出席したという。最も当時、殿様のお仕事は、自分の血筋を絶やさぬことで、少し割り引いて欲しいとか。


曽祖父・慶喜公の好きな食べ物

 好物はわからない。殿様は好物をいってはいけないそうだ。ヘタに美味いとか不味いとかいうと下に迷惑がかかる。それでも①ベッタラ漬け ②かまぼこ が好みとか。ひ孫も同じものが好きで、好物が遺伝しているそうだ。
 

 慶喜公は、豚一殿(ぶたいちどの:一ツ橋家の豚肉好き)とのあだ名があり、豚肉などの肉類を好んだ。また牛乳を一日に900ミリリットルほど飲んでいる。脚気が多かった将軍家では頑健であり、十五代の将軍たちのうち、最も長命だった。水戸家では、光圀の頃から牛を飼い、牛乳を飲んでいた
 肉の出所は近江彦根藩の牛肉味噌漬け。また水戸の弘道館・隣で牛を飼っていた父親の水戸斉昭からイロイロと送られた。また英国公使パークスがハム・ソーセージなどを。薩摩汁とは、豚汁のこと。薩摩ではいつも食べていた。


あんぱん


 木村安兵衛(木村屋創立者)は、山岡鉄舟と同じ道場で剣を学んだ。明治になっても東京に残り、元幕臣のため開かれた東京授産所(職業訓練所)でパン造りを学んだ。イーストを使わず米麹でパンを作り、アンをいれトップに桜葉の塩漬けをのせ、明治4年銀座四丁目「木村屋」として売り出した。世界の何処にもない日本アンパンになった。

 明治天皇にも好評で爆発的に売れたが、先に慶喜が山岡鉄舟から教えられ好物にしていた。鉄舟の代理として、清水次郎長が銀座から駿府まで届けたという。ただし事実か否か不明。


徳川慶朝(よしとも)さんのエピソード


 葵のご紋を「商標登録」してやろうと考えた。「葵のご紋」などいいことは何もない。商標登録すればテレビ水戸黄門で「これが目にはいらぬか?」というたびに幾ら、土産物が売れるたびに幾らと入ってくるはずと期待。だが葵の紋は知られすぎで商標登録は無理といわれ、ガッカリしたと書いている。


遠縁(とおえん)の若者

 親類筋の若者が婚約し、婚約者女性の両親に会いに行ったとき、ウッカリ「徳川慶喜」の名を出し、周囲から「結婚詐欺じゃないか?」と疑われた。事実だからOKと目出度く収まったが、曽祖父の名を持ち出すとロクなことがないそうだ


 「花押」をつくってみたという。趣味の方がいてデザインしてくれた。大臣などは今も使っている。国立公文書館の常設にレプリカがあるが、確かに文書の花押は重々しい。で、松戸の戸定(とじょう)歴史館が預かる慶喜公の遺品、歴史価値だけ、財産価値はないが、ときどき資料などの「使用願い」が出され、承諾書に花押を使ってみた。いかにも「お墨付き」といった感じで楽しいそうだ。


私のお墓 
 徳川慶喜公の墓は、谷中霊園の一画にあり、敷地が200坪ほど。ここに入ればいいか、と気楽だと書いている。宅地転用できるか? 都内に200坪はもったいないと考えたけど、「トンでもない!」雰囲気で諦めた。神道だからお彼岸はない。春季恒例際 秋気恒例際という。くれぐれもお線香と念仏は困るそうで、神社と同じくかしわ手をとのこと。


葵紋所入り低農薬米

 お仲間たちと造っている米が美味しい。では葵のご紋が入った袋で売ったら?と考えたが、 米の価格が安すぎて商売にならなかったそうだ。やはり殿様商売か?と反省している。


食事のマナーをうるさく教育された

 ①フォークの背に御飯を乗せるな(みっともない)  ②わさびを醤油に溶くな・・・わさびの正体は気体だから醤油に溶くと効果がなくなる。
③お茶汲み 
お茶組は立派な仕事だそうで、親の教育が分かるそうだ。文句を言う女性は、いい茶葉を不味く淹れるとのこと。


曽祖父を撮影した?
 何年か前、NHKで『徳川慶喜』を大河ドラマにすることになた。主役の本木雅弘くんをフランス式軍服姿で撮影するよう依頼された。なんとなく曽祖父の顔を立てて仕事を回してくれるそうだ。
仕事は有難かったが、人物はとったことがなく緊張した。俳優の本木君は、実に好青年、雰囲気作りも上手い。楽しめたが、ホントウに曽祖父を撮影しているような雰囲気となり、実に奇妙な印象だった。


 のんびりしたくて温泉旅館に予約の電話入れたら、「チョッとお待ちください」と、ちょっと妙な雰囲気だった。出かけたら大騒ぎに。徳川家ゆかりの方の経営だった。大変なもてなしを受け、宿泊費を受け取ってもらえない。全くのんびりできず、疲れ果てた以後はホテルか、詮索されぬところに泊まるようになった。


戸定歴史館
(とじょう・れきしかん) 
 松戸駅からおよそ10分 慶喜の実弟、徳川昭武(あきたけ)の別邸だった。戸定(とじょう)邸というが近年、歴史館となった。

 大名の下屋敷で貴重な建築だ。歴史資料を預かってもらっている。ここから仕事を依頼されるのが有難い。専門は【ブツ撮り(商品などを撮影)】で、貴重品などは壊す危険があり、特に文化財などはホントに怖い。頼むほうも、もしなにかあっても本人」ならねえ・・・と気楽に頼め、双方が便利な関係という。形の上ではひ孫に所有権があるらしい。


以上


引用本:『徳川慶喜家にようこそ』徳川慶朝著 集英社 1997
    『徳川慶喜家の食卓』徳川慶朝著 文芸春秋 2005