明治元勲を育てた女豪商
明治維新の逸材たちの知識は四書五経など東洋教養だけと考えるのは誤解です。日本は長崎の出島という針穴写真機のごとき小さな穴から、世界情勢を正確に把握していました。政治のみならず学術、経済のすべてに及びます。ここがお隣の李氏朝鮮とはまったく異なって正反対でした。幕末の逸材たち、西洋文明の素養があり、同時に「和魂洋才」の態度を保ちます。長崎は外国文化が身近な特別な場所でここでの見聞は指導者として必要な体験となり、結果として明治指導者の条件と勝手に推察しています。
この長崎に女傑がおりました。名を「大浦慶(おおうら・けい)」といいます。幕末の日本と長崎の雰囲気を知って欲しく書かせていただきます。
長崎の地で幕末志士たちの世話をしたのは、①小曽根乾堂(コゾネ ケンドウ:1828~1885)②トーマス・グラバー(1838~ 1911)③大浦お慶(1828~1884)の三人といわれます。お慶は女性ということもあり、大変慕われ、家に志士の出入りが絶えなかったとされます。
1828年、大浦慶は油商人の娘として長崎油屋町で生まれました。家は資産家でしたが1843年の大火ですべてを焼失、父親もすでに亡くなっており、お慶は16歳で、家を再興する立場におかれます。苦労ののち、「茶商売」に目をつけます。この頃の九州産茶葉は中国の「黒茶」と同じもので、中国が独占的に生産し英国などへ輸出、アヘン戦争一因ともなった製品でした。
1853年、出島のオランダ人・テキストルと相談し、嬉野茶(うれしのちゃ)見本をイギリス、アメリカ、アラビアの三国に送ります。期待はまったくしなかったのですが、3年後の1856年、イギリス商人・オルトが、見本を持って長崎のお慶を訪れ、茶を大量発注しました。
あまりの量に驚きますが、お慶は九州一円をめぐり、一万斤(およそ六トンとされる)をかき集め1859年長崎港から出荷します。代金が二千両と伝わり、現代価格ですと低く見ても三億円、女性一人のビジネスとしては大きなものでした。近代日本茶貿易の始まりとされます。
お慶は次第に取引量を増やし、莫大な資産を作ります。しかし英国人の好みが、黒茶から紅茶に変わり、中国アモイ、インドなどの紅茶栽培へと移行して日本からの輸出量は減少します。ピークは40年間ほどですが、個人としてのお慶には十分な取引量でした。
明治時代突入前、あわただしさを増した1865年から1867年にかけ、後藤象二郎、五代友厚、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎など、後に明治元勲として日本を支えた人々が、続々と長崎を訪れ、何かとお慶の世話になります。
『大日本人名辞典』には、お慶の人柄につき「人となり剛毅すこぶる気概あり。幕末のころ薩長土肥脱藩の士、検索を免れ、遠く奔りて長崎に来るもの、 皆ケイ女の庇護によらざるなし云々」と記されています。特に可愛がったのが、①坂本龍馬と亀山社中(海援隊)の人々、佐賀の②大隈重信および薩摩の③松方正義でした。坂本龍馬は志し半ばで暗殺されますが、大隈重信、松方正義は、明治の総理大臣を二度ずつ務めます。
お慶が支えた志士はほとんどが明治の日本を導いた人たちでしたから、大浦お慶は明治維新の陰の功労者とされ「長崎の女傑」といわれるゆえんです。1879年(明治12年)、グラント・元アメリカ大統領が日本を訪れた事があり、お慶はこのレセプションにも出席、明治女傑にふさわしい活動をしております。
晩年、連帯保証債務(遠山事件)で没落します。病を得て危篤にあたり、明治政府から「茶の輸出についての功労」を認められ、金弐拾円を賜っています。享年57歳。資料が少なく、今後の研究が期待されます。日本で成功をおさめた女性の数は少なくありませんが、お慶は少々珍しい例でしょう。女傑を輩出した長崎と、それを容認した日本社会を見ると、幕末から明治にかけての日本が、「決して狭量ではなかった」と感じるのですが、いかがでしょうか。
(参考資料:『長崎の女たち』長崎女性史研究会著 文献社発行、小説『天駆ける女(あまかけるひと)』白石一郎著 文春文庫)

