(39) 屋台で外食 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。

 


(67)屋台で外食 


 子供心に縁日の賑わいは楽しかった。食べ物が多く、ソース焼そば、杏飴、ハッカ飴、焼きトウモロコシ、焼きイカ、その他いろいろが輝いて見えた。たいてい両親や教師から叱られる。しかし江戸時代からの人気食べ物はほぼすべてが屋台から、天麩羅、蕎麦、握り鮨など調べれば切りがない。
 
 江戸は「諸国の吹き溜まり」といい、諸国から職人、商家で奉公の若者、江戸勤番などほとんどが独身男性で外食が多くなる。江戸女性は人口の三分の一とされる。土地が狭い上、武家と寺社が土地を占領したから、残りの15%に大多数が住んだ。人だから誰もが食べないと生きられない。その日暮しの町人には重要課題で、屋台は、営業側にも、利用者側にも都合がよかった

 
 屋台は人がいるところへ登場する。具体的には盛り場、著名寺社の近く、たとえば浅草の浅草寺神田明神、山王権現などきりがない。その他、花見、潮干狩り、夕涼み、花火、菊見、紅葉狩り、人がどっと出るから、屋台がほっておくわけがない。また大店の付近三井越後屋(現・三越)や大村白木屋なども賑やかで、ここには諸国からの観光客も混じる。まだあって、防火の火除地(ひよけち)も賑やかだ。

 江戸消火は、「破壊消防」といい、火事周辺の建築物を壊して延焼を防ぎ、結果、火元だけで鎮火する。両国広小路など延焼を防ぐ広場が作られた。
 
 このような広小路、すぐに撤去できる建物は許可された。ムシロで囲んだ小屋、たとえば芝居小屋、見世物小屋、茶屋、各種屋台、その賑わいは江戸一番といわれた。もちろん屋台があらわれる。
 恐れ多くも江戸城出入口、殿様は登城したきりなかなか戻らない。待つ身はつらい。冬など寒く腹も減る。これを目当てに多数が登場。何回も禁止されたが、まさにイタチゴッコ、「コンニャクの田楽、甘酒、清酒、すし、作り菓子」などを売った。 
堀 秀成著『下馬のおとなひ』【江戸の料理と食生活】原信夫著より孫引き。

 
 見世(店)の種類は三種類、①床店(とこみせ)、②出し店、③屋体(やたい)があった。床店や出し店は、空きスペースをサッと見つけ店を出す。中には九尺四方(約10畳)の土地つきもあったという。このような屋台が固定化し小さな店へと進化した。 
 



文化年間(1804~)に、外食文化は最高潮、中心部にある店の、80%からが食い物屋。これらが「居酒屋・一膳飯屋」として機能することになる。

 「町中に住んでいれば炊事しなくて困らない」といわれ、この繁栄は、現代東京外食事情と変わらぬようだ。『守貞謾稿』を見ると、茶漬け屋、祇園豆腐、料理茶屋、卓袱料理店、ドジョウ屋、山鯨店、鶏屋、茶店、生簀(いけす)料理店、などなど種類が多い。


 鮨屋と天麩羅屋は、町に三、四店はあった。鮨屋は総てではないが半数ほどが屋台を構え、女性を使わず若い男が給仕にあたったという。
 商いの種類を【歌川広重】『東都名所高輪二十六夜待遊興の図』から見つけて加えると ①鮨屋 ②水売り ③焼きイカ売り ④天麩羅屋 ⑤二八蕎麦 ⑥団子売り ⑦汁粉売り ⑧果物売り ⑨麦湯売り ⑩ほおづき売り、などが見て取れる。

    
 惣菜
の持ち帰りもそろっていた。守貞謾稿によると、「菜屋(さいやと呼ばれ、「生あわび、するめ、刻みするめ、焼き豆腐、コンニャク、くわい、レンコン、ゴボウ、刻みゴボウなどを醤油の煮染(にしめ)にして大皿鉢に盛り、見世の棚にならべこれを売る」とある。独り者が買って帰れば、飯だけ炊けば食事ができる。

 「煮豆屋」では香煎(こうせん:ムギコガシ)や嘗物(なめもの:なめ味噌、塩辛、ひしお、などなめて食するもの)を売っていた。
 

 大阪では「くわらんか船」が、沖あいに船を見つけてこぎ寄せ、「酒くわらんか、飯を食え!!」と騒ぎ立てつつ、漕ぎ寄せて売りつける。たとえ夜中でもたたき起こした。もう少し小さな船を「売々船(うろうろぶね)」とよび食物に加え、品物も扱ったという。

 
 和食につながる食文化は江戸期からで、屋台が基本。衛生、交通、その他多くの問題は承知で「屋台の復興が大切」が今回の主張であります。「博多」では合法屋台街が、多くの観光客を集め、佐賀県では商店街通路の中央に行商店が一列にならぶ。【リヤカー部隊】の生鮮食品おばさんが人気、40年ほど前から続くという。①行商人と②商店街と③警察とがルールを作り、一定時間を歩行者天国とし、上手く運営している。観光客をも誘い込み、シャッター通り対策になるかと思うのだが、どんなものだろう。

参考資料 『江戸の料理と食生活』原田信男編 小学館  『守貞謾稿』