(40)江戸の奇人・葛飾北斎 | 江戸老人のブログ

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江戸の奇人・葛飾北斎 (133)

 

 引越しが趣味という人がいるらしい。そのたびに新しい気分になるというのだが、江戸時代に93回転居したとなると異常であり、奇人・変人といっていいだろう。浮世絵師の葛飾北斎 である。
 北斎は酒もタバコもやらなかった。いつも藍染の木綿を着て、食事も煮売家(にうりや)の惣菜で間に合わせたという。江戸でも俗に「転居3百」といい、裏長屋だと最低でも3百文、これが借家になると一両はかかったという。

 北斎は90歳まで生きたが、晩年は三女のお栄と暮した。お栄も絵師だった。年頃となって、同じ絵師の男に嫁いだが、「夫の描く絵が自分より劣るから」との理由で離婚、父、北斎の元に帰った。娘も絵師だけの人生、父親に負けず劣らずの奇人といっていい。お栄は画号を「応為(おうい)」といったが、北斎がお栄をよぶとき、いつも「おーい」と呼んだことが由来という。

 炊事はおろか、掃除などの家事はまったくしない。ごみがたまり始め、悪臭・悪臭が酷く耐えられなくなると引っ越したという。確かにこれなら93回、年に二度ほどの引越しになる。全部引っ越さず、荷物を一部だけ移動し、二軒をいったり来たりの二重生活をしたこともあるというから、大変な物入りだったろう。

 天保10年(1839)北斎が80歳のとき、火災で家が類焼し、これまでの描いた絵がすべて焼けてしまい、さすがにガッカリしたが、こんなことでは北斎はあきらめなかったという。

 嘉永元年(1848)89歳で、浅草の小さな借家に落ちついた翌年、たぶん老衰だろうが、すっかり身体が衰弱し、お栄の看病もむなしく他界した。このとき「あと10年の時間を許されたら自分は本物の絵師になれるのに」といい、悔しがったとされる。嘉永2年(1849)4月18日 90歳の生涯を終えるが、『富嶽三十六景』他、多くの作品を遺した。とくに西欧の印象派などに与えた影響は大きい。

 北斎が生まれたのは宝暦10年(1760)江戸・本所の割下水(わりげすい)だったという。割下水とは、隅田川と横十間川との間に掘られた、排水を流すための掘割だったが、付近には幕府小役人の屋敷が多かった。両親や少年時代のことは不明だが、北斎自身が幼少のころの話を、天保5年(1834)から刊行を始めた『富嶽百景』の跋文(ばつぶん:抜き書き文)に、
「私は子どものときから、ものの形状を写生する癖があり、50歳の頃からしきりに絵を描いてきたけれども、七十歳前後に描いた絵は、まったく取るに足らない。七三歳にして、やや鳥や獣、虫、魚などの骨格、草木が成長するありさまを悟ることができた」
 と書いており、はためには謙遜と聞こえるが、どうも本気でそう思っているようだ。北斎は、常に高いところを目指していた。
 北斎の経歴をわかる範囲でさぐると、幼い頃から画才を発揮、19歳のとき、絵師になろうと決意、人気絵師の勝川春草(かつかわ・しゅんそう)に弟子入りした。翌年には才能が認められ、黄表紙や洒落本、今でいう小説の挿絵を描き出した。

 

 23歳の頃、最初の結婚をし、やがて一男二女に恵まれる。しかし収入はなくどん底の生活だったという。一時は絵師をやめようとしたが、27歳の頃、父の実家で幕府御用の鏡師(鏡を磨き、造る人)だった中島家から養子の話が舞い込む。いわゆる夫婦養子 で、夫婦ともに養子 になった。せっかく貧窮から救われたのに、二年後に妻が急死する。
 それを機に、北斎は家督を長男に譲り隠居、ふたたび浮世絵師に戻る。まもなく再婚、後妻との間に一女がうまれた。これが三女のお栄だろう。

 

 当時の浮世絵の主流は、美人画や役者絵だったが、北斎は、これにあきたらず、密かに正統派とされた狩野派の教えを受けた。これが発覚し、勝川春草に破門される。
 ところが、めげることなく諸流派の画法を学び続け、優れた描写力と大胆な構成を持つ独自の様式を確立する。江戸画壇の一匹狼として技量を磨き、北斎の世界を作り出した。
 探究心旺盛な北斎の画業は、日本国内は当然として、世界に揺るぎなき地位を確立、最近に至っても評価はますます高くなっている


引用本:大江戸<奇人変人>かわら版 中江克己著 新潮文庫