(72)江戸ふところ事情
江戸の貨幣は三貨制度といい、①金 ②銀 ③銅(銭)があった。金は江戸が中心、小判一枚を一両とする。その下は4進法で分と朱になるが、どっちがどっちか記憶が薄れる。筆者は「部長が偉い」と暗記しておき、部、すなわち分が上で、朱は下だ。一両は4分、一分が4朱だから一両は16朱となる。
銀は関西で、これは銀の重さによる。「貫」と「匁(もんめ)」が使われた。10進法だから記憶すれば易しい。一貫は1000匁で、一匁の10分の一が分(ふん)、そのまた10分の一が厘(りん)、そのまた10分の一が毛(もう)となる。例外として「一分銀」があり、銀なのに金として扱われた。開国時の金流失の原因と思われる。
銅は銭とも言われ、銅以外の貨幣もあったが、二八蕎麦が十六文のあれですね。一文銭、五文銭、四文銭、十文銭があった。よく知られるのが寛永通宝一文銭で寛永13年(1636)から通用した。丸い形の中央に正方形の穴が開く。穴に紐を通してくくり、100文が「一さし」といわれ、どういうわけか96枚、4文不足なのに100文として通用した。2と3で割り切れる数で便利だったからという。1000文を一貫文という。お前には、「びた一文やらぬ」といい方があるが、悪い銭をビタといい、漢字では「鐚」、金偏に悪でビタ「悪貨は良貨を駆逐する」の悪貨のことですな。
これら貨幣が同時に使われ、両替商という商売が成立、高度な貨幣経済があった。日々、貨幣価値が変わり、かなり面倒な計算が必要だがもとも算数が得意で苦にしていない。一国内で ①円と、②ドル、③ユーロなどとその補助通貨が同時に通用したようなものだ。
金の貨幣は高額取引、銀は商業決済? 日常の買い物は銅(銭)と考えてよさそうだ。仮に小判でソバの代金16文を支払うと、タテマエでは一両は4千文だが、実際には6千文、釣りが5,984文となり、銅銭をこれだけ用意するのは馬鹿か? と受け取ってはもらえまい。反対に30両の刀剣を買い、銭で支払うと180,000文の銅銭が必要、冗談じゃない!となる。そういえばお隣の朝鮮では李氏朝鮮末期に高額通貨を廃止したから、英国人女性旅行家のイザベラ・バード氏は、旅行に際し、【穴あき銭】しかないため、自身の旅費を運ぶのにロバ二頭が必要だったと書いている。社会が破綻していたんですね。
もちろん為替相場もあり、両替商らは莫大な利益をあげた。面白いところでは火盗改めの長谷川平蔵が為替相場で大きな利益をあげ、人足寄場の費えをまかなったという。
一両は今の幾らか? これがいつも難しい。江戸時代は米本位制で260年ほどの長きにわたるから、簡単にはいかない。八代将軍吉宗などは市場に米がだぶつくと、武士の収入が減少するため豪商に買占めさせたり、酒を大量に作らせた。不足すれば、また豪商から出させたり、酒の醸造を禁止したり、市場の総量を規制、早い話、現代の「日本銀行」の「マネタリー」の役割を果たしていた。黒船が来てから後は、凄いインフレのため、一両が酷く安くなる。3000円程度という説もあるが、それを除くと、筆者の感じでは、一両が10万円、一文が20円ほどに感じる。これだけは何となくスッキリしない。米価、大工手間賃、ソバ価格を比較する方法があるが、いずれも快刀乱麻とはいかない。優れたホームページが多いからご参照にされると、詳細に理解できる。
江戸 上方
・一両・・・・・10万円 ・一両・・・・・・・・10万円
・一分・・・・2万5千円 ・一貫目(1000匁)100万円
・二朱・・・・1万2千5百円 ・一匁(10分)・・・・千円
・一貫文・・2万5千円 ・一厘(10毛)・・・・10円
・一さし・・・2千円
・一文(一銭)・・・20円
都市部の町人には税がなかった。また商人などにも所得税、あるいは法人税がない。当然、社会保障はない。その分、裏長屋などの人間関係が、ある程度の救済をした。また非常災害のときは、幕府は救済措置を実施している。
国税に匹敵するものがいくつかあった。固定資産税? が、沽券(こけん)というもの、もともと売買証書を意味するが、「沽券金」とか「沽券絵図」などの言葉がよく登場する。沽券とは派生語で、町屋敷の「権利証」であり、「不動産評価証明」だった。江戸の商人は家質(かじち)の金額、つまり自分の不動産価格を信用のあかしとしたから、「沽券にかかわる」とは「信用にかかわる」なのだ。ある程度の国税を支払ったようだが、現代と比較すると安い。
その他、幕府や家の台所が苦しいとき、武士の扶持米から一定割合を天引きするのが「あげ米」がある。また公役(こうえき)や国役(こくえき)は本当は労働税だが、金納ですませている。
国役で有名なのは宝永四年(1707)の富士山大噴火のとき、酒匂川(さかわがわ)が火山灰で埋まり、莫大な出費が発生した。幕府は全国農民に一律2%の年貢米を治めさせたが、災害に使われたのは20%、だけで残りは幕府の台所に使った。
御用金は、幕府・諸藩が財政窮乏の折、御用商人などに課し庶民とは無関係。運上金(うんじょうきん)は農民以外に、一定の税率でかけたがキッチリした制度とはいえない。冥加金(みょうがきん)とは「御礼」の意味で、納金者が金額を決めたとされる。
開国後、金銀交換比率が日本と米国で異なるため、米人は銀貨を一分銀と交換、4枚で小判(金)と交換して本国に持ち帰り金持ちになった。日本から金の流失は50万両とされるが、実際にはもっと多いのではないだろうか。
通貨の写真等は、成美堂刊 『江戸散歩・東京散歩』90Pから引用。
参考図書:『江戸』玉井哲雄 平凡社刊 『大江戸調査網』 栗原智久 講談社選書

