愛国百人一首の絵葉書 | かつての切手少年

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小学生の頃から収集している切手、約10年前から収集し始めた絵葉書や世界の紙幣、好きな旅行、街歩き、等々について書きます。

百人一首の日と言う事でしたが、百人一首(かるた)はやったことないのでブログは書いてなかったのですが、所有する絵葉書を見ていたら「愛国百人一首」というものがありましたので、遅ればせながら書かせて頂きます。

 

「愛国百人一首」

戦時中の翼賛運動の一環として、「愛国の精神が表現された」とする名歌百首を選んだもので、皇室への崇敬を筆頭に、国土愛や家族愛の歌が採られている。選ばれた百首は、情報局の検閲を経て昭和17年(1942年)11月20日、情報局から発表された。これに改訂と解説を加えたものが、『定本愛国百人一首』として昭和18年(1943年)3月に毎日新聞社から刊行されている。

 

「愛国百人一首絵葉書」

愛国百人一首を慰問用のはがきに採用したものです。

 

私が所有しているのは次の2枚です。

 

表面には”慰問絵はがき”と書かれています。

 

38番:西の海よせくる波も心せよ神の守れるやまと島根ぞ(中臣祐春)

意味:西の海のかなたから、我が国に寄せてくる波のような元軍よ。心得違いをするなよ。こちらは神々が守っていらせられるやまとの国だぞ

中臣祐春は、鎌倉時代の神職・歌人で、弘安5年奈良の春日若宮神社の神主を務めた方だそうです。元が日本に攻めてくるという国難に直面している頃に詠まれたものとのこと。

 

34番:昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけむ(藤原良経)

意味:昔の人が、これほどまでに立派なほどに咲く桜の木を植え育てて、今見るような春の花爛漫の吉野の山に変えたのだろう
藤原良経は、鎌倉時代の人で23歳で摂政に25歳には太政大臣になった優秀な方でした。吉野の桜は鎌倉時代にも既に有名だったんですね。

 

戦争(後に第二次世界大戦と言われた)真っただ中に生まれた「愛国百人一首」のお話でした。