五塔寺の入口に着く。こんなに人が多いのは初めてだ。
微信で予約はしたが、当日来ても入れると思う。20元。博物館通票でタダ。有難いことに青空。加工してないからね!
北京に古い塔は多いのだが、中に入れるところは少ない。
中はパネルで塔の紹介があるのだが、彫刻された動物一つずつの説明もあった。。下からゾウ、獅子。
両脇の「银杏树」はともに樹齢600年。
1年ぶりに行ったら、カフェなんぞができていた。中に椅子は数個。外にベンチが増えていた。冬は無理だな。グッズを売る店もある。
塔を後ろから望む。
黄葉が有名だから、とにかくみんな熱心に撮影している。プロしか使わないようなお高いカメラをお持ちの方も少なくない。
五塔寺、別名、北京石刻博物馆。今回撮らなかったけど、石刻をいろんなところから集めて、並べている。詳しくは過去記事へ。
五塔寺を出て、地下鉄の駅に戻る。レストランを二つ知っているのだが、両方なくなっていた。簡単に食べるところしかなくて、「兰州牛肉面」へ。
食後また五塔寺に戻る。川沿い。
五塔寺の向かいは北京動物園の北門。
北京動物園は広く、一番端っこなので、動物はいないと思ったら、いた!高いところに「秦岭羚牛」。微動だにしない。
秦岭羚牛(学名:Budorcas taxicolor bedfordi)高山攀爬生活。高いところ好きなんだね。じゃあハサミと一緒だ。え?違う?日本語はゴールデンターキンで、国際保護動物ターキン(ウシ科)の1亜種。中国でも「国家一级保护动物」。それってパンダ様と同じランクじゃないか。それなのに、こんな一番端っこの誰も来ないようなところへ追いやられて、お気の毒様。
「暢観楼」へ。
「1911年辛亥革命后,畅观楼则成为孙中山等革命党人的集会场所。孙中山先生曾三次来到畅观楼」。孫文も来ている。
南下。写真を撮らなかったので、ネットから拝借。宋教仁纪念塔遗址。
宋教仁(そうきょうじん、1882 - 1913)は清末民初の政治家・思想家・革命家。中華民国臨時政府で国民党結成。党首として1913年2月の総選挙で圧勝するも、翌月暗殺される。<Wikipediaに載ってる>
……1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝当局に露見し計画は失敗、同年末日本に亡命する。日本亡命期間中は1905年6月に法政大学法政速成科に入学、雑誌『二〇世紀之支那』を発行する。
1905年7月、宮崎滔天により孫文を紹介される。1905年8月には広東派の興中会、浙江派の光復会、湖南派の華興会が合併して同盟会が成立する。
12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺、宋教仁は遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年、早稲田大学留学生予科に学ぶ。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴く。夏、日本に帰る。1910年末、帰国する。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立する。
ここは塔の、しかも跡しかないんだが。さらに南下すると、「鬯[chàng]春堂」。
一幢中式古典建筑,建于1908年年初。1912年民国成立后,同盟会领袖宋教仁任农林总长,于是年4月至12月搬入位于北京动物园内的鬯春堂居住。
宋教仁が住んでいたこともある「鬯春堂」は、清末は西太后や光緒帝が「暢観楼」に来たときに同伴した人が休む場所だった。1990年に失火で消失した後、再建された。現在図書室となっていて、自由に利用していい。ペットボトルも売っている。
鬯
音読み:チョウ、訓読み:においざけ、のびる
意味:①においざけ。黒きびに鬱金香(ウッコンコウ)をまぜてかもした酒。 ②香草の名。鬱金草。 ③の(伸)びる。草木がのびしげる。
動物園の南側を西から東へ進む。動物がほぼいない公園状態。
これ初めて見た!
パンダ舎へ。
行儀の悪いお方。
怠け者なお方。っつーか、落ちるよ。
パンダ舎の二階にパンダカフェ。
ほくろ、、だろうか?
パンダ好きにはたまらない(のか?)。
平日に行ったんだけど、週末は混みそう。
ケーキはパンダのみならず、子どもが欲しがらなさそうな犬も。
しばし休む。
北京動物園の南側から出て、地下鉄「北京动物园」駅から帰る。
この記事を書くために日本語のWikipediaを見たら、動物園内にはいろいろな古い建築物があると知る。それ目的でまた行かないとなー。動物は、、、、いいわ。
追記:北京観光という中国人が作った(に決まってる!)観光案内サイトの「北京動物園」のページ。