隆宗門の矢は李自成か天理教教徒かはたまた(故宮博物院) | みどりの果敢な北京生活

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昨日の故宮記事の追記。隆宗門に矢が刺さったままであるが、それは誰が放ったものであるか。

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「宗」の左下。

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中国語できる人は原文で読むといい。

 
二つ説がある。

第一种说法,是崇祯朝之时,李自成攻入北京,在攻入紫禁城之时,为了耀武扬威,在隆宗门上射了一箭,算是对明朝皇家的一种侮辱。这种说法很容易具能被推翻,因为隆宗门的匾额是满、汉文字书写的,不可能在清朝入关之前留下来。

 

另一种说法,这是天理教攻入皇宫械斗之时留下来的箭矢,嘉庆帝为了警示自己和后人,才将这支箭留了下来。

 
まず一つ目の「李自成が北京を攻めた時に放った矢」という説。
 
李自成……明末の農民反乱指導者。「李自成の乱」を起こして首都の北京を陥落させ、明を滅ぼした。順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、すぐに清に滅ぼされた。(wikiより)
 
李自成は明の人。写真にあるとおり扁額には満州文字と漢字の両方が書いてある。紫禁城は明代に建てられて、その時は漢字のみだった。清になって満州族が皇帝になったので、扁額は漢字と満州文字で書かれた。だから、この扁額の上に明の李自成が矢を放つのは不可能。
 
二つ目の説。「天理教の教徒が中の宦官と内通して、放った矢。嘉慶帝は自分と後の人に警告する意味で矢を抜かずに残している」。ではその根拠は?
 
1971年に周恩来の指示で、郭沫若が《故宮簡介》を編集した。そこに書いてあること。
 

嘉慶18年に天理教徒が河南省、山東省から北京にやってきて、郊外に潜伏。中の宦官と内通して、紫禁城の中に侵入。隆宗門附近で激しくやりあって、匾額に矢が放たれた。《故宮簡介》にはまとめとして「這是中國人民英勇鬥爭的光輝遺跡」(中国人が勇敢に戦った輝かしい遺跡)。

 

しかし、史料には天理教が反清である記載がない。天理教は乾隆、嘉慶年間に現われた民間の抗清組織で、主に河南、山東一帯にいた。組織は大きくなり、宮中にも教徒がいた。天理教の首領である林清、李文成が武装起義を統率した。

 

謀反当日、嘉慶帝は紫禁城におらず、避暑山荘から帰る途中だった。天理教徒は東華門と西華門から進入。侍衛が刀を所持している者を発見し、景運門はすぐに閉められた。

 

謀反者が宮中に入ったと知った綿寧(嘉慶帝の次男。のちの道光帝)の耳に入り、すべての門を閉めさせた。隆宗門も閉められ、教徒が壁を越えて入ろうとしたとき、綿寧が到着し、二人を刺殺。短刀を持っていた教徒達はすぐに包囲され、計画が失敗に終わった。嘉慶帝が帰ってきたときにはすでに収まっていたが、「漢唐宋明未有之事」と憤怒。内部の者を厳しく管理した。

 

史料には、天理教の教徒が短刀を服に隠し持っていたとは書いてあるが、矢を使ったとは書いてない。もし弓矢を持っていたのなら(大きいので)、紫禁城に入る時に見つかるはずだ。

 

中央文史研究館の元副館長の吳空氏は《故宮雑憶》で「矢の向きがおかしい」と指摘している。角度を見ると、高いところから低いところに刺したようになっている。ほかの専門家も嘉慶帝の時代ではないという意見で、李自成説も天理教説も史料に記載が見当たらない。

 

吳空氏がここの修復の責任者に聞いたところ、50年代に隆宗門をきれいにしたとき、扁額だけでなく門にもいくつもの矢があった。すべて抜き、扁額のところの穴が一番大きかったので、工人達が適当に一本を刺した。これでなぜ上から下に刺してあるのかが説明できる。

 

50年代に隆宗門になぜこんなにも多くの矢が残っていたのか。

・八カ国連合軍が中国を侵略したときのもの

・溥儀が紈絝の子弟達と弓矢で遊んだ(溥儀は自転車に乗る練習をする時に宮中の門を外した)

・民国時代に故宮が使われなくなったとき、いたずらで弓矢で遊んだ人がいた

 

諸説あるがどれも証拠はない。ただ言えるのは、嘉慶帝の時代に残ったものではないということ。

 

紈絝

① 白の練絹で作った袴。むかし中国で貴族の子弟が用いた。ぜいたくな生活のたとえ。

② 転じて、貴族の子弟。特に柔弱な貴族の子弟。

 

故宮は大規模な修繕を何回もしているのに、なぜ矢が残っているのか。1950年代に郭沫若先生がまとめた《故宮簡介》に「天理教の話は広く伝えられていて、今でも伝説としてガイドが話す内容である。この矢は反封建思想の宣伝となり、今では不思議な話として話題になっている。

 

以上が故宫隆宗门匾额上的箭头,到底是李自成还是天理教留下的?の内容。

 

これについて故宮マスターに問い合わせたとき、去年撮ったという写真を提供してもらった。でも今はこれがなくなっている。

 

嘉慶18年に天理教が太监(宦官)と内応して隆宗門まで攻めて来た」と書いてある。これが故宮の公式な見解なわけだ。でも上記のサイトの記事だと「嘉慶帝の時代に残ったものではない」と断言している。

 

この記事を書いた人は「温读」。ペンネームなのかな。「优质历史领域创作者」となっている。一個人の見解だし、ネットで見た記事だし、一つの逸話として認識したほうがよさそうだ。

 

 

本日の中国語学習

・惊心动魄[jīng xīn dòng pò]指文辞优美,意境深远,使人感受极深,震动极大。后常形容使人惊骇紧张到极点。

・里应外合[lǐ yìng wài hé]外面攻打,里面接应。

・寡不敌众 [guǎ bù dí zhòng] 人少的敌不过人多的。

 

 

最後に、扁額に関連してこんな記事も。

紫禁城内の扁額

 

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