皆さん、東京モーターショーにはもう足を運びましたか?


ワタシの身近な人たちで、普段それほどクルマにのめり込んでいるわけでない人たちからも、

「行ってきたよ」「今度見に行くよ~」という声を、けっこう聞いております


そうした人たちと、モーターショーをきっかけにクルマの話ができることは、うれしいことですし、クルマ好き の人だって、言われているほど少なくないじゃん、と喜んでいる次第です


でも、クルマ好きの皆さんは、最新のクルマに何か物足りなさを感じている……


それは何なのか????


そのヒントを、先日レース仲間の応援に出かけた、新東京サーキットで見つけました


それはズバリ

「いい音を奏でるクルマが、すっかり減ってしまった」

ということ


最近、街を歩いていてそう思いませんか?


ワタシの実感としては、

ハイブリッドカーの普及も手伝って、幹線道路や大通りの脇を歩いても、昔よりずっと静かになった気がします


そんな中、ごく稀に「お、いい音」と思ってそっちを向くと、クルマよりも1Lクラスのビッグバイクだったりするケースが多くって……


言っておきますが、

ワタシは「うるさい音(爆音)は大っ嫌いです」


これまで装着してきたマフラーも、メーカー純正品か、アフターパーツのマフラーでも、音量の低いモノばかり選んできました


だから静かなクルマは大歓迎なんですが、音量と音質は別問題


回転数の上昇とともに、気持ちよーく抜けていく音

そういう音がやっぱり欲しい


サイレンサーのない直管のレーシングカーで、聴き比べると

1、V12

2、V10

3、直6

4、V8

5、直4

6、V6

といった順で、官能的なエキゾースト・ノートになっているように思えるが、

個人的には(V12気筒を別にすれば)、やはりストレート6の音が一番大好き!


それから、むかしバイクに乗っていたこともあって、インライン4=直4エンジンの音もけっこう好きです


エンジン音なんて、静かであればるほどいい

なるほどそれは正論だ


スポーティーなサウンド=大きな音、というのは間違っている


だけど正しければ魅力的かというとそんなことは決してないし、いまの技術をもってすれば、機械的に「正しい」だけなら、それほど難しいことはないはず


だから肝心なのは、「正しく間違えること」

これがものすごく難しく、同時に大きな魅力となってくる


いいサウンドというのは、「正しく間違えること」の典型だといえるだろう


そして正しい間違え方は、誰も教えてくれません


ゆえに正しく間違えられる人を育てるには、間違いを許容する寛容さが欠かせません

その寛容さが、成果主義、効率主義の大自動車メーカー様にあるかというと????



先賢曰く「必要なのは無駄な努力。報われるぐらいの努力では、オリジナルなテーマは見つかりません」とのこと


なんだかんだ言って、みんな国産車、メイドインジャパンが大好きなんです


だから、日本の自動車メーカーから、僕らが「おおっ!」と叫び、思わず買いたくなってしまうようなクルマが、じゃんじゃん出てきてほしいな~


四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

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東京モーターショー2013に行ってまいりました


四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」


四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

「エコ」一色だった前回よりは、幾分活気が戻ってきたような気がするので、水を差すようなことは言いたくないのですが……


どのメーカーの、どのクルマといった個別の話ではないんですが、

とにかく全体として冷めている……

モーターショー特有の熱さのようなものが、どのブースからも正直あまり伝わって来なかった


ワタシなんぞが言うのも失礼な話だが、個々のクルマはそれぞれよくできているし、よく考えられている


誰かが、どこかでこんなようなことを言っていた記憶がある

「どこからか、テクノロジーの進化は人間性を毀損する方向にしか機能しなくなったように感じる。確かに便利になったんだけど、過剰な利便性や過剰な効率性の追求は、最終的には人間を必要としなくなる方へ向かってしまう」と


当今のクルマは、その最たるものであることは間違いないが、

技術の進歩=ドライバーの喜びにつながっていないことだけが、

熱気不足の原因ではないように思う


ではその原因はどこにあるのかというと、それはズバリ、作り手の「歓喜」の不足からだとワタシは見ている


クルマの作り手が、「オレたち、こんなすごいクルマ作っちゃったぜ、でへへへへ」と思っているクルマからは、必ずその歓喜が伝わってくる


それが東京ビッグサイトにきれいに並べられている展示車からは、ほとんど感じられなかった


「ナニ言ってんだバカヤロー。オレたちが、この予算、この開発期間で、このクルマを仕上げるのにどれだけ努力したと思ってんだ! その努力、その情熱を否定されたたまったもんじゃないぞ~」

と、技術者の皆様からお叱りが飛んできそうですが、

ワタシだけでなく、世のクルマ好きの皆さんも、じつはそのことは、よーく理解しています


むしろ、この場合、よく理解していることこそが問題なのです


どういうことか?

つまり、いまのクルマは積算根拠が明快すぎるということです


これだけの性能、これだけの機能、これだけの努力・工夫だとすれば、

このクルマが1台〇〇〇万円というのは、もっともだ

と誰もが納得しちゃうことが、問題なんです


たとえば、GT-R NISMO

15,01万5,000円

なるほど~ 納得


四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

(水野さん退社後、田村さんがリーダーになって、開発ドライバーも鈴木利男さんから、M・クルムになったという点で、その仕上がりは気になるところ)


トヨタ FT-86

297万円

うん、なるほど 納得

(写真はモーターショーに出展された 86オープンコンセプト)


四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

といった具合に、ちっともボッていないし、安くもない

きわめて良心的で、賢い適正価格になっている


でもはっきり言って、等価交換には魅力がない!!


フェラーリもポルシェも、価格設定は、どう考えてもボッタクリ

でも、その割り切れなさが魅力だし、

それがわかると、この性能以上の価格設定のからくりは、「数値化できない、パッションと歓喜代ということだな」と、ユーザーが勝手に思い込むしかなくなるわけです


実際、フェラーリなどは、車体価格の半分以上は、F1の個人スポンサーのようなものです

でも、プチF1オーナー気分が味わえて、万々歳じゃないですか


もうひとつ、逆に「この値段じゃ、割りが合わないだろう?」て思えるクルマも魅力的です

代表作は、R32GT-Rとか、初代ロードスターあたりでしょうか?

R32に関しては、主管だった伊藤修令さんが、「他車のように、原価に一律何%の利益を乗せて価格設定をすると、とんでもない金額になってしまうので、絶対に損はさせないから、儲け率ではなく、儲け額で考えてくれ」と言って、会社側と交渉したそうです


こういうクルマは、やはり作り手の歓喜が伝わってくる


「このクルマ、そうとう作り手が無理して作ったんだろうな」ということは、

ユーザーだって、馬鹿じゃないからすぐわかる

そうすると、「作り手が無理したんだ。こっちも無理して購入資金を何とかするぞ~」となって、

下手すりゃ、年収以上の車体価格のクルマを、60回ローンとか気の遠くなるようなローンを組んでまで、ついつい買ってしまうわけだ


こうした、作り手も自己満足、買い手も自己満足するクルマは、やがてめでたく名車にランクイン!


一方、積算根拠が明快なクルマは、見透かされて、つまらない


それどころか、昨今のクルマは、エコカーを中心に

「こんなにお得!」というのを前面に打ち出しているが、

穿った見方をすると、「こんなに抜くとこ抜いて、こんなにお安く仕上げました(ドヤ!)」

と自慢されているようで、ものすごく萎えてしまう……


一昔前のクルマには、いわゆるダメ車がたくさんあったが、

むかしのダメ車からは、「与えられた条件下で、オレたちは精一杯やったんだ。でも、こんな程度のクルマしかできなかった……。悔しい! いまに見てろよ!」といった情念というか怨念に近いようなものが伝わってきて、これはこれでややいびつな形ではあるにせよ、パッションとして共感できるモノがあった


それに対し、いまのクルマは、実用的にダメなクルマなんて、国産車には一台もない


でも、効率優先、性能が一緒ならあとは価格勝負、といった頭のいいクルマ作りは、

「これだけ省けました」「抜くとこ、抜けました」と自慢されているようで、かわいげないし、魅力がない

そうして愛されないクルマは、短期間で粗大ゴミにならざるを得ないので、もっともエコの精神に反することになる。

つまり、立派なダメ車



積算根拠が明快な、適正価格=等価交換のクルマなんて、器にちょうど摺り切り一杯の価値しかない

すごく割り切れるけど、引っ掛かりもない

だから摩擦もなくて、熱さも生じない


だから、クルマに熱さを取り戻すためには、

器の容量のジャスト一杯ではなく、表面張力分、というか少々はみ出してこぼれたるぐらい盛り込んでもらわないとダメなんだと思う


やはり、オトコの道楽は無理してナンボでしょ

ブラック企業化しろというのではなく、作り手が歓喜の中で無茶したクルマ、

次回のモーターショーでは、そんなクルマに再会したい……


四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

(着せ替えコペン)


四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

四輪書「The Book of Four Rings(Wheels)」

(東京五輪を意識した、社長の肝煎りタクシーらしいが、霊●車っぽく見えるのはワタシだけ?)


年末だ、年始だ、おめでたい、とはしゃぎまくっていたら、いつの間にか2013年も1ヶ月が経ってしまいました

いまさらですが、皆さま今年もよろしくお願いいたします


で、年末年始にパソコン内のファイルをいろいろ整理していたら、書いたきりなぜか忘れ去られていたテキストがあったので、せっかくなのでこの機会に掲載させていただきます


で、このテキストは、当研究所の筆頭研究員=クラゴンが書いた、非常に秀逸な「ドライビング・プレジャー論」=「クラゴン部屋的ドライビング・プレジャー論」http://kuragon.net/2011-01-19-driving-pleasure.html )のアンサーコラムとして書いたもののようです

データによると、ワタシがこのコラムを書いたのは、2011年の4月とのことなので、ライティングの経緯はかなりあやふやですが、中身の鮮度は失われてはいないので、ご高覧に供する次第であります


上記の「クラゴン部屋的ドライビング・プレジャー論」と合わせてお目通しいただき、各位のクルマ選び、カーライフの参考にしていただければ幸いです


◆以下が、そのアンサーコラムです◆



クラゴンの「クラゴン部屋的ドライビング・プレジャー論」、楽しく拝見させていただきました。

じつのところ、ドライビング・プレジャーというのは、自動車雑誌などでもおなじみのフレーズなんだけど、ドライビング・プレジャーの良し悪しが何に依存し、何で決まるのかについて語れる人はきわめて稀で、傾聴に値する人は日本で5人もいないのです!?

そうしたなかで、クラゴンがクルマのポテンシャルとドライバーの実現性能の関係に着目したのは、正鵠を射た発言でじつに面白い!

ワタシも素直に「そのとおり!」と手を打ってしまったぐらいです。

で、思いっきり同意してしまったので、ワタシも一言能書きを垂れさせてください(笑)。

ドライビング・プレジャーについて語りだすと、すぐに「人車一体」っていうお決まりのフレーズが出てくるんだけど、ワタシが思うに「人車一体」=意のままに操れる=ドライビング・プレジャー度が高いというのとは、ちょっと違う気がします。

クルマに限らず、人と道具の関係は、どこまでいっても人間側がその道具の“事情”を尊重し、クルマやタイヤがどう動きたがっているか、に耳を傾け従うしかない。

だって道具とケンカしても人間には勝ち目がないのだから。ここが肝心! このわかりきった法則を無視して「曲がれ」「止まれ」「走れ」と命令形のドライビングを繰り返すと、やがて手痛いしっぺ返しを食らうことは、皆さんも経験上骨身に染みてわかっているのではないでしょうか? (それでもまったく懲りない輩が多いのが現実ですが……)

というわけで、人とクルマの主従関係は、どこまでいってもクルマが“主”で、ドライバーが“従”(運動科学の専門用語で、「他者中心運動構造」というやつです)。

そうした視点で考えると、


ドライビング・プレジャー度の高いクルマというのは、クルマの“事情”に自分を合わせることが苦にならないクルマ、もっといえば、クルマの“事情”を尊重していることが気にならない(気がつかない)クルマということになってくる。


そのことをクラゴンは「人間とクルマの親和性の高さ」と表現したと思うんだけど、その親和性は、母と幼子の関係のようであってもダメなんだな。

つまり、ドライバー(幼子)がどんなわがままを言っても受け入れてくれるクルマ(母親)では楽しくないわけ。

クラゴンはそれを「クルマの性能」「実現性能」「実現不能領域」という三つの要素で表現してくれたんだけど、まさにクラゴンのいうとおり、人とクルマの関係は、95:100ぐらいが黄金比なんでしょう。

そのぐらいの比率だと、クルマが“主”だとわかっていながらも、どこかでクルマに従っている自分が“主”なのでは、と「美しい誤解」に浸ることができて、とってもハッピーな気持ちになれる。

でも……。

馬術の世界では、その極意を「鞍上に人なし・鞍下に馬なし」と表現するのだが、クルマとドライバー、どちらが“主”? なんて意識しているうちは、まだまだ修行が足りないってことなんだろうね。

一般論でいえば、クルマに従うのが心地いいクルマほど、ドライビング・プレジャーの高いクルマといえるが、最終的にはどんなダメグルマ、どんなダメタイヤを履いても、その道具の性能を引き出したという実感(多くの場合、美しい誤解)があれば、快感なんだと思うけど……。

だって、タイヤとクルマの性能を全部引き出したいという願望があるのに、「オレはこのクルマのポテンシャルの半分も引き出せていねぇ~」という自覚があったら、走る喜びなんて味わえないでしょう(凹むだけ)。

だから、このタイヤ、このクルマの性能を余すところなく、引き出している、と思えるようなパートナーになれないと、ドライビング・プレジャーは薄まってしまう……。

(客観的にはともかく、少なくとも主観的には)

というわけで、ハイパフォーマンス車に乗っている人ほど、そうした境地になれるまで、精進あるのみということです。ハイ。


(2011年4月27日)