ヒルデカルトの生涯 | Spirit's journey

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閃きに従い、無意識のブレーキを自然に克服し、現実想像のスキルを磨くブログ

半年前、ベネディクト修道院(現在名)を訪れたときに、

私の今の現状を知らずに、

インスタにアップした

動画

 

 

 

聖ヒルデガルト修道院のショップで、
天使をくれた人のことを、
突然思い出し、尋ねようとした。
それは、前回の投稿でも書いたけど、
思いつきで、行動すること。得意でしょ?と、

聖堂で座っている時にメッセージが降りてきたから・・・・。
アポなしで、25年前の元カレのお母さんに会いにいくって、
相当アホだと思う。

私の家族から逃れられて、超幸せだった土地20代
私の家族に反対されて、戻って来れなかった土地。
やっとまた舞い戻ってきた土地30代
そして、私自身の家族にまた連れてきてもらった土地50代
愛を完成させるために来ているらしいけど、
実感はまだない。
私に、愛情を教えてくれた人たちが住んでいるこの街。
あの人たちのように、子供達に、愛情を示せない私。
せっかく教えてくれたのに、
せっかく私にも、注いでくれたのに、愛。
だって、おとぎ話の中だけのものだと思っていた、
メルヘンチックな愛って。
それが、ここには、本当にあった。

マリアテレジアのような慈悲深い人だった。
そんな彼女に、天使を返したくって、花束を買ったが、
あいにく留守だった。
あれから10日ほど経って、息子(元彼)から、連絡があったが、
返信する気にならない・・・・(笑)
あの時、あの場所で会いたかっただけで(超!自分勝手ごめんね)
あなた達の生活の邪魔はしたくないの。

もう一度、子供に愛情をわかりやすく示すこと、やってみようと思う。
自分自身の子供時代を癒す手立てのような気がする。

 

と、書いてた。

そして

今日の朝、

まだベットの中で、

昔、本当にお世話になった

奥田さんや、Uweさんへの

感謝の気持ちが湧いていた。

その理由が、今では思い出せないけど、

ああ、そうだ、

キラキラ輝いていた時間を、本当にどうもありがとうと、

思ったんだった。

 

6年間も、日本で私にドイツは素晴らしいところと

洗脳してくれた人Uweさん。

私を叱るときに、愛と笑いたっぷりに、

対応してくれた人、奥田さん。

なぜか、起きてすぐなのに、

感謝が止まらなかった。

 

 

ここからは、ヒルデカルドの生涯

調べた備忘録です。

 

 

 

 

突然、ヒルデガルトフォンビンゲンは

掲示を受けた。

天からの稲妻のように、

 

神が彼女の人生に現れた。

彼女はこの神秘的な体験を次のように語っている。

 

「1141年、私が42歳と7ヶ月の時、

広い空から稲妻を伴った燃えるような光が降りてきました。

それは私の脳の中を流れ、心臓や胸の中で炎のように輝いていました。

しかし、炎は燃えるのではなく、

太陽のようにその光を浴びる対象を暖めていました。

今、突然、聖書の意味が私に開かれました。

詩篇、福音書、その他の旧約と新約の書物です。"

占い師は預言者となり、

神から「見たこと、聞いたことを書きなさい!」という具体的な依頼を受けた。

自分が体験した奇跡を伝えなさい!

 書き留めて話すのです!"

ビンゲンのヒルデガルトは深く怯え、

書くことなどは、実行しなかった。

すると、彼女は重い病気にかかり、

病床に横たわっていた。

 

そして、やっと啓示を書くようになって初めて、

彼女は元気になった。

そして、神の意志を認識した彼女は、

 

それからの10年間で最初の作品「Scivias - Know the Ways」を書き上げた。


そんな中、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが世界的に注目される出来事があった。

 

1147年11月30日から1148年2月13日にかけて

トリアで開かれたシノドスでは、

教皇オイゲン3世が、ヒルデガルトの書物である『スキビアス』«Scivias»を、

枢機卿、司教、神学者たちの前で、自ら読み上げた。

教皇がヒルデガルトの能力を認めたことで、

彼女は教会に認められ、

一挙に西洋で有名になりました。

 

さて、修道院ルペアトベルクにて、

ヒルデガルトの不朽の名作が書かれていました。

「功名が辻」という、善悪の行いの報いを記した人生訓のようなもの。

そして、宇宙の神学ともいうべき「神業の書」も登場する。

詩や歌、推理劇や聖人伝説、さらには科学や医学に関する記述など、その価値は計り知れないものがありました。

磁石に吸い寄せられるように、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンに助言を求める人々が何千人も集まり、

ルペルトベルクはヨーロッパの相談室となりました。

 

司教や教皇、皇帝や王も例外ではありません。

彼女は文学活動に加えて、

4人の教皇や多くの教会の王子、修道院などと豊かな交流を深めました。

ヒルデガルトはローマ教皇アナスタシウス4世とも

ローマ教皇アナスタシウス4世 ウィキペディア

 

 

恐怖の皇帝フリードリッヒ1世とも謁見しています。

そして、ヒルデガルトが、

皇帝に宛てた4通の手紙も残されています。

皇帝が対抗教皇を立てることをやめず、

18年間の分裂を招いたとき、

ヒルデガルトは皇帝に次のように書き送って脅しています。

 

 „Der da ist, spricht: Die Widerspenstigkeit zerstöre ich, und der Widerspruch derer, die mir trotzen, zermalme ich durch mich selbst. Wehe, wehe diesem bösen Tun der Frevler, die mich verachten!

 Das höre, König, wenn du leben willst, sonst wird mein Schwert dich durchbohren!“

 

「存在する者は言う、私は争いを破壊する、

それに逆らう者は私自身で砕く。

災いなるかな、悪の災いなるかな、

私を侮っている悪人のこの悪行に。

王様、これを聞いてください、

もしあなたが生きようと思っても、私の剣があなたを貫くでしょう!」。

 

その後、ヒルデカルドは

多くの修道女を収容するために、

彼女はリューデスハイムの上にある

アイビゲンに2つ目の修道院を設立しました。


反教皇派がキリスト教を混乱させ、

聖職者や修道院の規律が失われていた。

ヒルデガルトはもう抑えられない神の国への関心から、

彼女は修道院の独房を出て、

フランケン地方、ヴュルツブルクとバンベルク、ライン川を下ってケルン、トリーア、最後に南ドイツと、4回にわたる大規模な宣教の旅を行い、

修道院や市場でいたるところで説教をして、

人々や聖職者に悔い改めと回心を呼びかけたのです。

ヒルデガルトは神に満たされていたので、

あらゆる場所で心を揺さぶり、悔い改めに向かわせることができたのです。

しかし、ヒルデガルトは同胞の精神的な幸福に気を配るだけでなく、

病人を助けようともしました。

彼女は、神が自然の中に置いた癒しの力に人々の目を向けさせるために、医学書も書きました。

ビンゲンの聖ヒルデガルトは、1179年9月17日に81歳で亡くなりました。

彼女の死に際には、空に明るい光の十字架が輝いていました。

これは彼女が「生きている光」を見ることを許された証しです。

創造物が創造主を見ているように、

最愛の人が最愛の人を見ているように」という素晴らしい言葉を生み出した彼女は、今、永遠の光の父のもとに帰ることを許されたのです。

 

参照ページ

https://www.hildegard-naturprodukte.ch/hildegard-von-bingen/