このブログを訪問してくださった方への感謝 & 僕がブログについて思うこと | 休日に訪れたい横須賀周辺の名所・食事処

休日に訪れたい横須賀周辺の名所・食事処

横須賀在住の横須賀ロランが訪れた横須賀周辺の名所・食事処について、徒然なるままに書いています。

僕がこのブログを始めて、間もなく2年になろうとしていますが、この休日に訪れたい横須賀周辺の名所・食事処および休日に訪れたい横須賀周辺の名所・食事処2を合わせて60000以上ものアクセスをいただき、僕のリコメの分を抜いた分を合わせて6000以上ものコメントをお寄せいただいて、皆さんには本当に感謝しています

本当に・・・・・・本当に・・・・・・ありがとうございます!

そして

今後とも、何卒よろしくお願いいたします!

実は、僕がブログを書き綴るのは2年前に始まったことではなく、もう10年以上も前に遡らなくてはならなくなるのですが、その間に色々なこともありました。
そして、色々な方ともコミュニケーションをとってきました。
そうした中で、僕が感じたことを一言で言わせていただくと・・・・・・

「たかがブログ、されどブログ」

です。
ブログは本来、個人の書き綴る日記ですから、他人に見せるものではないのかもしれませんが、それをこうしてインターネットを通じて、非公開としている場合は別ですが、利用されている多くの方は公開範囲を限定するにせよ、他人に見られることを意識して書き、または写真を載せたりして、その感動を共有したいという思いもあれば、自分のことを他の人達に知ってもらいたいという思いもあるのだと思います。
まあ、色々な思いがあるにせよ、そこには確かに書き手と読み手、すなわち、人と人との繋がりがあることだけは事実だと思います。
つまり、人と人との繋がりがあるということは、人間としての感情も行き来します。


先日、その詳細は明かせませんが、内緒で次のようなコメントをいただきました。
その大筋としては、「他の方のブログでは詳しく返信したりしているのに、なぜ自分のブログでは大雑把なコメントしかしてくれないのか」といった内容です。
僕ももちろん人間ですから、感情もありますし、僕は平等ではなく、公平(≒誰に対してもではなく、同じ条件下では平等。機会均等)をモットーとしている面もあります。
例えば、僕が、「Aは綺麗だ」といった文章を載せたとしましょう。
それに対し、「他の場所やウチの庭でもAを見た」ですとか「自分もAを撮った」といったコメントを寄せてくれた方と、「横須賀ロランさんの撮られたAはすごく綺麗、自分も見てみたい」ですとか「こんな綺麗なAが咲いているだけでなくBやCまで咲いていると教えていただきありがとうございます」といったコメントを寄せてくれた方がいたとして、皆さんなら、このお2人に同じようなコメントを返しますか?ってことなんです。
僕がドライなだけなのかは自分では分かりませんが、僕は基本的に、面識の無い方が何をしていようと、その方のすることに興味はありませんし、他人に迷惑をかけないように自由に生きてくれれば、それで良いと思っています。
(面識のある方でも、オチも無く情報価値も無い単なる日常報告には、あまり興味を示せないかもしれません・・・・・・僕自身の悪い所であるとは分かっているのですが)
一方、自分に対して興味を持ってくださったり、自分の価値観に同意してくださったり、感動を共有してくださった方には、自分にできる限り、その方のことに興味を持ちたいとも思いますし、考え方も理解していきたいと考えます。
僕は特別な人間なんていないと考えていますし、自分も特別な人間ではないと思っているつもりですので、できる限り物事を相対化する視点、すなわち、自分が同じことをされたらどう思うか、何を感じるかという視点を持ち続けたいと考えていますから、自分が同じことをされても仕方が無いと思えるような場合でなければ、あっさりとした返信をしたりはいたしませんので、僕を責める前に、まずは御自分の発言や行為を振り返られたほうが早いと思いますし、僕に共感してくださった方には、時間の許す限り、自分にできる限りで、その方の思いも理解したいなあと考えています。
(もちろん、僕が常に共感や理解をしてからリアクションするという意味では決してなく、僕が良いなあと思って一方的に共感を寄せていく場合もあれば、共感を寄せてくださった方を理解したいなあと思う場合もあり、まさに対人関係と同様に、そのあたりはケース・バイ・ケースで、常に僕が判断権者だなどとは考えていないです(笑))


さらに言えば、中には、自分のブログへ訪問して欲しくて、ナイスを寄せてくださったり、コメントを寄せてくださっている方もいらっしゃるのかもしれません。
(過去には、そうした見返り要求もあったりしました(; ̄ー ̄A アセアセ・・・)
僕は、自分が書いたり編集した記事を御覧になっていただけるだけで嬉しく思いますし、ナイスをお寄せいただいたり、コメントをお寄せいただけることは本当に光栄なことだと考えていますので、ナイスやコメントをお寄せいただくこと自体に、どうこう言うなんてのはもってのほかだと考えています。
ただ、僕自身は、僕のブログを訪れてくださって、記事を読んでくださった方に、ナイスやコメントを寄せることに義務感を感じられたりすることが、実は僕自身の最も本意ではないことであるため、これは実際の僕の知り合いの方で、僕のブログに興味を示してくださった方にもお伝えしたことなのですが、その意味で、「ナイスなどはお寄せいただかなくても結構ですよ」と言わせていただいたのです。
(もちろん、ナイスやコメントを寄せていただいたら、それは本当に光栄です♪)
僕は自分がナイスやコメントを寄せたからといって、その方にその後も義務的に感じられたりするのは、むしろ本当に申し訳ないなあと思い、お好きなタイミングでお好きなように記事を読んでいただければ、それだけで本当に嬉しく思う一方で、自分の時間の許す範囲、自分のできる範囲ということもありますから、コメントやナイスをお寄せいただいた方から順に訪問させていただくといったことはありますが、自分が思ってもいないことを今後も書いたりする予定はありませんし、あまりにも自分の考え方と違うものにナイスを寄せたりするつもりもなく、見返り要求に応じるつもりもありませんので、その点に関しては御理解いただければ幸いに思いますm( __ __ )m


そして、上でも述べましたように、ブログというのは本来、個人が書き綴る日記であって、それをネット上で公開しているだけにすぎないと僕は考えているうえに、有名人でもない一般人が「○○へ行きました~」「今日は△△しました」って書き綴ったところで、「知らね~よ」「だから、何?」って反応のほうが、むしろ自然だと思います。
(上のケースは、あくまでも何の行き来も無い個人間の場合で、僕自身も含めます)
なので、本当の有名人でもない一般人が、ブログの内容に興味を持ってもらえるというのは、そのブログ間を行き来する人同士の間に何かしらの繋がりや関係があるか、もしくは、内容自体に情報価値があるかのどちらかではないかと考えています。
本当の有名人の場合には、その有名人が○○へ行ったり、その日に△△したことに情報価値があるために、興味を持たれることが多いのであって、○○へ行くこと自体や△△すること自体に価値があるわけではないのに、有名人気取りで同じことをやっても、有名人と同じように興味を持ってもらえないのは当然だと、僕は思います。
にもかかわらず、「自分の場合は○○で・・・・・・」だとか「自分は△△だと思ったんだけど・・・・・・」って言われても、そんなの知るわけないし、だから何?って話です(笑)
(僕が上のようなコメントを書く時というのは、僕の場合を直接訊かれた時でなければ、おそらく同じようなコメントが何度もあった時の返しの意味もあると思いますし、
僕自身は、自分が先にそのようなコメントを寄せた場合には、そうしたコメントが返ってきたとしても納得できますし、そういうコメントが欲しい時なのだろうなと思います)
本当の有名人でもない一般人が、自分のことに興味を持ってもらえるのは、相手の話を受け入れて理解しようとした後(親密関係構築の前提条件を充たした後)か、もしくは、内容自体がその相手にとって明らかに情報価値のある場合であって、そうではないのに相手に内容の理解を期待するのは、自分を過大評価している身の程知らずか、情報価値に対する世間の認識との間に齟齬がある場合だと思います。
(こんなことを書いてしまうと、自分がそうなんじゃないか?と思われてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、きっとこの文章を読んで不安に思われた方ほど、そうではない可能性が高いと思いますし、本当に身の程知らずで情報価値に対する世間の認識との間に齟齬がある方は、逆にこういった文章を読んでもピンとこない方が多いのではないかと思われますし、少なくとも、僕がその記事内容を理解しようとコメントを書かせていただいている方は、何も心配される必要は無いと思います(^^;))


あと、僕個人としては、理由づけや意味づけのしっかりした文章などを書かれる方には、正直、魅力を感じたりもしますし、素敵だなあと思ったりもします。
結論なんて、黒でも白でも、右でも左でも、どちらでも良いと思っていて、大事なのは、そこに至るまでの理由づけや意味づけに魅力が感じられるかどうかかと。
しかも、理由づけや意味づけは、長ければ長いほど良いというものではなく、いかに要所要所でポイントをついて、押しつけがましくなく、サラっと載せられるかかと。
例えば、魅力的だと思われる歌詞を想定していただければ分かるように、多くの方に共感してもらえるような歌の詞って、実はそうした内容が多いのではないかと。
(どういった感情が表現された歌かというよりも、なんで悲しさや寂しさ、嬉しさや楽しさを感じるのか(=理由づけ)、悲しさや寂しさ、嬉しさや楽しさとはどういうものなのか(=意味づけ)を巧く表現した歌詞に、共感を覚えやすいのではないでしょうか)
感性や世界観を表現した作品といったものにしても、結局は自己の内面にあるそうした思いの表出物だと思いますし、結局は文章にしても音楽にしても絵にしても写真にしても映像にしても何にしても、その表現形態の違いでしかなく、理由づけや意味づけのハッキリしないものは魅力も乏しいように思いますし、逆に、理由づけや意味づけがしっかりなされていれば、誰かの心は間違いなく掴むようにも思います。
多少、抽象的な説明なので分かりにくい部分もあるとは思いますが、ブログについていえば、「なぜ、それを載せたのか?」といった理由づけや、「なぜ、それを載せることに意味があるのか?」といった意味づけに、他人に理解されることを期待しなくとも、少なくとも自分の中で筋の通ったものがある内容(自分がこれを他の人に見て欲しいからというのも、その気持ちが本当であれば十分すぎる理由や意味だと思います)には、やはり人の心を打つ魅力があるように思われますし、逆に、「なんとなく、こんなものを載せてみましたけど、分かってくれる人がいたら良いなあ~」と本当に漠然とした思いだけでは、人を惹きつけるというのは難しいようにも思ったりします。
だって、自分自身がよく分かっていないようなものなんて、基本的に他人が分かるわけないし、ましてや自分が分からないようなものを他人が理解してくれることを前提に考えているというのは、単なる甘えか自分を特別視しているかのどちらかでしょ。
ハッキリした答えなんか要らないと思いますし、その答えを出す必要も無いと僕は思いますが、少なくとも、自分の中では筋の通った理由、ハッキリとした意味、そうしたものがなければ、他人に理解してもらうことを期待するのは難しいのではないかと。
(現実世界でもそうですが、そういう人ほど他人に過剰な期待をしたり、自分を受け入れてもらえない場合にヘソを曲げる人間が多いようにも思います( ̄▽ ̄;)アハハ)


・・・・・・と、一体何が書きたいのか、僕自身よく分からなくなってきて、本当に申し訳ないのですが(苦笑)、ブログには書き手と読み手という、人と人との繋がりがあることだけは間違いないと思いますし、書き手も読み手も人間である以上、コンピューターのように皆に対して同じように一律のコメントや返信をするわけでは決してなく、書き手や読み手の感情も交錯する場だと僕は思っていて、もちろん、それぞれが気軽に続けられるのが一番だと思いますが、他者に対して過剰な期待はせず、強要もせず、所詮は自分の日記をネット上に載せたもので、見てもらえるだけでも嬉しいな♪という認識を僕自身は持っていると、まあ、そういうことですo(*^▽^*)oあはっ♪
(とはいっても、僕自身が毎日記事を更新している一方で、御自分の記事を更新されていないにもかかわらず僕の記事を御覧になってくださって、ナイスやコメントまで寄せてくださっているブロ友さんなどには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいであると同時に、そういう方ほど、いつも温かいコメントやナイスをお寄せいただき、本当に感謝していますことを、この場を借りて改めて伝えさせていただきますm( __ __ )m)



※ 余談の余談

先日、安保法案に関する余談を書かせていただいたところ、その内容に関して、僕が日本国憲法9条を改正してから安保法案を通すべきだと書いていたことを読まれた方から、「改憲派なのか?」といったコメントを内緒でいただいたりもしました。
なので、誤解されている方もいらっしゃるかもしれないと思われたので、その点に関して、改めて多少書かせていただきたいと思います。

まず、僕が日本国憲法9条に関して改憲に賛成かと問われれば、この条項に関しては現時点では反対です。
現時点ではというのは、日米安保があり、日米同盟が成立し、日米地位協定が締結されている限りにおいてはという意味です。
というのも、アメリカがどんなことを言おうとも、この日米安保を前提とした日米同盟が成立していることにより、日本の領土内にアメリカ軍の基地(負担)が存在し、思いやり予算が組まれ、日米地位協定まで締結されている以上、アメリカ軍には日本を守る義務が存在することは明白であり、そうした状況下において、日本が集団的自衛権を行使しなければならないほどの軍備増強をする必要性を感じないからです。
ただ、仮に将来、日米安保(&地位協定)が破棄され、日米同盟が解消されるとなった場合には、日本国憲法9条が今のままで良いのか、議論をする余地が残されているのではないかとも思いますが、日米安保、日米同盟といった日米の関係が今後も続く限りにおいては、日本国憲法9条改正の必要は無いと、僕は考えています。
よって、日本国憲法9条に関しては、護憲派です。

また、日本国憲法前文、および、第3章の人権規定(10条~40条)に関しては、将来においても、その改正には絶対的に反対です。
というのも、一部の条項(30条の納税の義務など)を除けば、この人権規定において書かれているのは国民の権利保障についてであり、前文に掲げられた理想はまさに民主主義国家としての理念を明文化した名文であると思われるため、これらの規定を改正して、一般の国民にとって得なことは無いといえるからです。
国民としての権利保障を放棄するということは、即ち、国家(権力)によって自由を制限されることを意味しますから、僕はこれらの規定の改正には絶対的に反対です。
よって、日本国憲法前文、および、人権規定に関しては、護憲派です。

一方、日本国憲法第1章の天皇に関する規定や、統治に関する規定については、個人的に改正したほうが良いのではないかと思われる規定も存在します。
例えば、今の天皇陛下が御高齢であらせられる状況などに鑑みれば、7条にあるような多くの国事行為が存在するというだけでも、陛下自らがこれらの行為を御病状等により行えなかった場合に、精神的負担を感じられたりすることなども考慮し、そのいずれも形式的行為であることからしても、その数を減らしても良いように思われますし、個人的には首相公選制のほうが今よりは民意を反映しやすいと思われるため、そのための規定(67条など)などは改正しても良いように思われますし、中央集権よりは地方分権のほうが財政の公平な分配の点においても好ましいと思われるので、地方分権を進めるために財政や地方自治にまつわる条項を改正しても良いと思われますし、国会議員の不逮捕特権(50条)なども、院の許諾などがなくとも、防犯カメラ等で国民の誰の目にも証拠が明らかな場合などにも罪を犯した議員が会期中には逮捕されないというのは不合理だと思われるので、そうした条項を改正したりするのは問題無いのではないかと思ったりもします。
よって、公の(権力)機関の権限を拡大する方向の改正には反対ですが、逆に、権限を縮小する方向の改正には賛成しますし、首相公選制や地方分権、天皇陛下の国事行為の御負担を減らす方向での改正には賛成したいと思いますので、統治や天皇に関する規定に関しては、(その条項により)改憲派です。

以上のように、僕は日本国憲法の条項(統治規定など)によっては改憲派ともいえると思いますが、日本国憲法の9条や前文、人権規定については護憲派です。

では、なぜ日本国憲法9条を改正してから安保法案を通すべきだと言ったのかには、大きな理由が3つありまして、その3つとは、①日本は立憲主義国家であるため、違憲の疑いが強い法案に関しては、まずその憲法の条項の改正をしてから法案を通すというのが、(政治)制度的な道理であると思われるため②国民に対する説明が明らかに不足しており、国民の間でも十分に議論し、国民のより多くを説得するためには、憲法改正の国民投票を行うことが最も有効な方法であると思われるため。③現在の日本では、平和憲法の象徴として名高い日本国憲法9条の改正に反対する国民の数のほうが、9条の改正に賛成する国民の数よりも多いと思われ、仮に9条の改正がなされたとしても、それが国民投票としての結果であれば、民主主義国家の理念的にも、国民全体の納得の面からも妥当だと思われたため。です。

あと、これはアメリカ軍の基地と自衛隊の基地(防衛大学校なども含む)の両方が存在する一横須賀市民として思うことですが、集団的自衛権の行使として、今回成立した安保法案を根拠に、今後、先のアフガニスタンやイラク戦争のような事態が発生した場合に、後方支援部隊としてではなく、主力部隊を構成する一国の軍隊として日本の自衛隊が参加するようになった際に、相手国家やテロ組織等に、日本国内でテロの標的として狙われやすくなる自治体はどこか、考えたことはありますか?
沖縄県ほどではないにせよ、アメリカ軍の基地が市内にあり、自衛隊の基地がいくつもあるこの横須賀市に暮らす住民としては、国際的な有事に対する緊張感がいっそう強まったようにも思えますし、アメリカ軍の基地や自衛隊の基地が無い自治体に暮らす住民が、抑止力のためだなどと言って平然と今回の安保法案に対して賛成している姿を見ると、安全な場所から無責任に好き勝手なことを言っているような気がして、おそろしく腹が立ちますし、無責任に言っているつもりが無いというなら、この横須賀だとか沖縄のような場所に移住するか、もしくは自衛隊に入隊して戦地行きを志願してから賛成して欲しいとさえ思います・・・・・・口だけで勇ましいことを言うのは誰にでもできますが、そんな無責任なことはないのではないかと僕は思いますし、さらに言えば、有事の際に戦地の最前線へ行くことになるであろう自衛隊員の、指揮官ではなく一部隊員として配属されるであろう方や、その家族の方の“匿名”での声にこそ、まずは耳を傾けるべきなのではないかなとも思います。



(今回の記事は、以上のような長文になってしまいましたので、今日はとりあえずこの記事だけをもって、終わらせていただきたいと思います(; ̄ー ̄A アセアセ・・・)