僕はこういった記事でコツコツと教育に関して語るようになりました。
そこで今回は『僕の今の教育観を作った原体験』について書いていこうと思います。
●将来を背負って立つ人材のために●
こういった形で教育に関する記事を書くようになりずいぶん経ちました。
少しでも多くの人に「まともな教育」に目を向けてほしい、教育に対して真摯に向き合ってもらいたいという思いもあり、書き続けています。
とはいえ、基本的には自分がその時思ったことを書き連ねている感じなので、書くネタに困窮するときもあります(笑)
それでもできる限り記事を書いていこうと思っています。
確かにたまには教育とは関係ない話も書くと思いますが、基本的には教育一辺倒で書いていっています。
そもそも『僕がなぜこのような教育に関する記事を書くようになったか?』を書いていこうと思います。
僕は『とある中学受験を失敗後、ある私立中学に通う→1から出直し灘高に合格→京大入学&卒業→塾講師・予備校講師』という経緯を辿っています。
塾に始めて行ったのは確か小学校4年生だったと思います。
地元の小さな塾に通ったのが始まりです。
その塾では「将来この子はかなりのところに行けるのではないか」と言って頂いていたようです。
それから引っ越したので、その塾で小学校卒業や中学受験を迎えたわけではないのですが、結果的にその先生の言葉に応えることができ、良かったと思っています。
今から思えば、これが僕のすべての始まりです。
もしそこでその先生が「この子は将来かなりのところに行けるのではないか」と言ってくれていなければ、僕の親も本気にはしなかったでしょう。
そしてその先生は僕のことを思って、「この塾ではこの子が行けるはずの学校までは対応していない。別の進学塾に行く方がいいと思います」と言ってくれました。
これは、その塾からすれば人材の流出になる可能性があるわけですから、会社としてはダメなことなのかもしません。
でも、この先生がこういってくれたことで今の僕があるわけですね。
そして今の教育に対する思考もこのとき感じたことが原体験になっているように思います。
つまり、『どこで誰に習うかなんて関係ない、でもその子の可能性を摘むことはしてはいけないし、可能性が最大限広がる世界に飛び込むべきだ』ということをここで経験したわけです。
正直僕自身は今でもこういったスタンスでいます。
確かに僕が教えられる生徒の数には限界があるし、むやみやたらに数を増やしても、1人1人に対する質が低下するだけです。
僕の最大のウリは授業がうまいことではなくて、『生徒の振る舞いから思考を判断し、適切なアドバイスを提示することができる能力』だと思っています。
しかし、これを発揮するためにはどうしても人数を限定して、しっかり見ていく必要があります。
もちろん少しの情報でもある程度は判断できます。
しかし、正確に判断し、少しでも効率的なものを提供しようと思うと、少々の時間を要するわけです。
ただこうやって判断できた場合は、『どこで誰に習うかなんて関係ない』と思っています。
もし自分が出講している塾で良い講師や環境がない場合は、自信を持って他塾を勧めます。
もちろんそれによって塾の収益は下がるので、もしくは上がらないので、迷惑をかけてしまっているかもしれません。
決して褒められたことではありません。それはわかっています。
しかし、僕の中では、『生徒が最終的にちゃんと合格しないのが最も塾にとって迷惑だ』という思いがあります。
そして何より『塾の利益を優先した結果、その子が合格しなかったら、何よりその子に迷惑だ』という思いがあります。
正直、「僕がいたからこの子は合格したんだ」なんて自意識過剰なことを言う気はさらさらありません。
明確な目標を持った子が、その目標を一時たりとも遠回りせず成し遂げることができれば、それでいいのです。
その際に、将来の日本を背負って立つ可能性を持った思考力・判断力の基礎を持っていてくれれば、それでいいのです。
こんな想いが通じるようにこれからも頑張っていきたいですね。
そこで今回は『僕の今の教育観を作った原体験』について書いていこうと思います。
●将来を背負って立つ人材のために●
こういった形で教育に関する記事を書くようになりずいぶん経ちました。
少しでも多くの人に「まともな教育」に目を向けてほしい、教育に対して真摯に向き合ってもらいたいという思いもあり、書き続けています。
とはいえ、基本的には自分がその時思ったことを書き連ねている感じなので、書くネタに困窮するときもあります(笑)
それでもできる限り記事を書いていこうと思っています。
確かにたまには教育とは関係ない話も書くと思いますが、基本的には教育一辺倒で書いていっています。
そもそも『僕がなぜこのような教育に関する記事を書くようになったか?』を書いていこうと思います。
僕は『とある中学受験を失敗後、ある私立中学に通う→1から出直し灘高に合格→京大入学&卒業→塾講師・予備校講師』という経緯を辿っています。
塾に始めて行ったのは確か小学校4年生だったと思います。
地元の小さな塾に通ったのが始まりです。
その塾では「将来この子はかなりのところに行けるのではないか」と言って頂いていたようです。
それから引っ越したので、その塾で小学校卒業や中学受験を迎えたわけではないのですが、結果的にその先生の言葉に応えることができ、良かったと思っています。
今から思えば、これが僕のすべての始まりです。
もしそこでその先生が「この子は将来かなりのところに行けるのではないか」と言ってくれていなければ、僕の親も本気にはしなかったでしょう。
そしてその先生は僕のことを思って、「この塾ではこの子が行けるはずの学校までは対応していない。別の進学塾に行く方がいいと思います」と言ってくれました。
これは、その塾からすれば人材の流出になる可能性があるわけですから、会社としてはダメなことなのかもしません。
でも、この先生がこういってくれたことで今の僕があるわけですね。
そして今の教育に対する思考もこのとき感じたことが原体験になっているように思います。
つまり、『どこで誰に習うかなんて関係ない、でもその子の可能性を摘むことはしてはいけないし、可能性が最大限広がる世界に飛び込むべきだ』ということをここで経験したわけです。
正直僕自身は今でもこういったスタンスでいます。
確かに僕が教えられる生徒の数には限界があるし、むやみやたらに数を増やしても、1人1人に対する質が低下するだけです。
僕の最大のウリは授業がうまいことではなくて、『生徒の振る舞いから思考を判断し、適切なアドバイスを提示することができる能力』だと思っています。
しかし、これを発揮するためにはどうしても人数を限定して、しっかり見ていく必要があります。
もちろん少しの情報でもある程度は判断できます。
しかし、正確に判断し、少しでも効率的なものを提供しようと思うと、少々の時間を要するわけです。
ただこうやって判断できた場合は、『どこで誰に習うかなんて関係ない』と思っています。
もし自分が出講している塾で良い講師や環境がない場合は、自信を持って他塾を勧めます。
もちろんそれによって塾の収益は下がるので、もしくは上がらないので、迷惑をかけてしまっているかもしれません。
決して褒められたことではありません。それはわかっています。
しかし、僕の中では、『生徒が最終的にちゃんと合格しないのが最も塾にとって迷惑だ』という思いがあります。
そして何より『塾の利益を優先した結果、その子が合格しなかったら、何よりその子に迷惑だ』という思いがあります。
正直、「僕がいたからこの子は合格したんだ」なんて自意識過剰なことを言う気はさらさらありません。
明確な目標を持った子が、その目標を一時たりとも遠回りせず成し遂げることができれば、それでいいのです。
その際に、将来の日本を背負って立つ可能性を持った思考力・判断力の基礎を持っていてくれれば、それでいいのです。
こんな想いが通じるようにこれからも頑張っていきたいですね。