「天才」と言われる人はどの世界にもいると思います。
そこで今回は『才能ではなく、いかに多くの努力をしたかで勝敗が決する世界で戦っているという意識』について書いていこうと思います。
●僕の高校時代の経験からの学び●
今自分の出身高に通っている子たちには何も悪い印象は持っていませんが、自分自身が通っていた頃は高校が非常に嫌いでした。
高2の終わりまでは医者志望だったこともあり、医学部志望でした。
ただ、小さい頃から「教師か医師になろう」と思っていたこともあり、しょぼい教師には嫌気がさすタイプの人間でした。
そんな中、高校生活のときの学校の先生は本当に酷かったことを覚えています。
控えめに言うと、もちろん全員が酷かったわけではないですが、主要教科は本当に酷かったことを覚えています。
これは僕だけが思っていたことではなく、大半の同級生は思っていたようです。
その結果、実績としてもパッとしないものが出たことを覚えています。
正直、実績のほとんどは灘校生御用達の塾のおかげだと思っています。
この思いは今となっても変わっていません。
だからこそ、今でも「やる気も技量もない講師」というのが大嫌いです。
でもなぜこのような思いを持つのか?これには理由があります。
正直、高校に入って最も「良かったな」と思っていることは、自分の才能では到底追いつかないほどの才能を持った人たちを見ることができたことです。
ご存知の通り、全国トップレベルの人たちが同級生の中にゴロゴロいるわけです。
これによって最初は自分のプライド・自信が粉々に砕かれたこともありました。
「俺もそこそこやれると思っていたが、完全なる勘違いだった…。やはり才能勝負ではダメだな…」と思うに至りました。
なぜ今回こんな話を書くのか?
それは『本当に天才と呼ばれるような人たちをライバル・敵として相手にする必要があるのか?』ということを問いかけたいからです。
確かに東大・京大をはじめ、難関大と言われる大学には「天才」も来るでしょう。
ただ勘違いしてはいけないのは「才能が抜群の天才」と「努力の結果賢くなった秀才」は異なるということです。
スポーツに才能があるように勉強にもある程度の才能があります。
これを否定しようとは思いません。
人が3回繰り返して習得することを、1回だけで習得しています人もいます。
そこまではいかないまでも、普通の人が3時間で理解・習得することを1時間で理解・習得してしまう人もいます。
ただ確かなのは「才能が抜群の天才」というのは本当に一握りです。
灘高の場合、高校ならだいたい1学年220人ですが、このうち本当の天才は10~20人です。
さらなる桁違いを探せばもっと数は少ないのです。
確かにこういった人たちがかなりの数目指す志望大学や志望学部を志望する人にとってはなかなかにツライところではありますが、たいていの場合は無視できるほどの数であるということを忘れてはいけないと思います。
一部だけを見れば、『努力が才能を凌駕する』ことはありません。
ただ全体的に見れば『努力が才能を凌駕する』ことは多々あるのです。
厳密には『努力でカバーする人が戦う相手は、たいていの場合、同じ努力型の人だ』といういうことです。
ついつい才能だけで抜き去ってしまう人を見ると羨ましくも思いますし、かなわないようにも思えるかもしれません。
でも大丈夫です。
そんな人と戦わないといけない場自体が非常に少ないのです。
これで言い訳はできなくなりましたね。
僕たちは『いかに多くの努力をしたかで勝敗が決する世界』でほとんどの場合戦っているということです。
なら、自分が本当に必死になれる世界で必死になり尽くすことが重要ではないでしょうか。
そこで今回は『才能ではなく、いかに多くの努力をしたかで勝敗が決する世界で戦っているという意識』について書いていこうと思います。
●僕の高校時代の経験からの学び●
今自分の出身高に通っている子たちには何も悪い印象は持っていませんが、自分自身が通っていた頃は高校が非常に嫌いでした。
高2の終わりまでは医者志望だったこともあり、医学部志望でした。
ただ、小さい頃から「教師か医師になろう」と思っていたこともあり、しょぼい教師には嫌気がさすタイプの人間でした。
そんな中、高校生活のときの学校の先生は本当に酷かったことを覚えています。
控えめに言うと、もちろん全員が酷かったわけではないですが、主要教科は本当に酷かったことを覚えています。
これは僕だけが思っていたことではなく、大半の同級生は思っていたようです。
その結果、実績としてもパッとしないものが出たことを覚えています。
正直、実績のほとんどは灘校生御用達の塾のおかげだと思っています。
この思いは今となっても変わっていません。
だからこそ、今でも「やる気も技量もない講師」というのが大嫌いです。
でもなぜこのような思いを持つのか?これには理由があります。
正直、高校に入って最も「良かったな」と思っていることは、自分の才能では到底追いつかないほどの才能を持った人たちを見ることができたことです。
ご存知の通り、全国トップレベルの人たちが同級生の中にゴロゴロいるわけです。
これによって最初は自分のプライド・自信が粉々に砕かれたこともありました。
「俺もそこそこやれると思っていたが、完全なる勘違いだった…。やはり才能勝負ではダメだな…」と思うに至りました。
なぜ今回こんな話を書くのか?
それは『本当に天才と呼ばれるような人たちをライバル・敵として相手にする必要があるのか?』ということを問いかけたいからです。
確かに東大・京大をはじめ、難関大と言われる大学には「天才」も来るでしょう。
ただ勘違いしてはいけないのは「才能が抜群の天才」と「努力の結果賢くなった秀才」は異なるということです。
スポーツに才能があるように勉強にもある程度の才能があります。
これを否定しようとは思いません。
人が3回繰り返して習得することを、1回だけで習得しています人もいます。
そこまではいかないまでも、普通の人が3時間で理解・習得することを1時間で理解・習得してしまう人もいます。
ただ確かなのは「才能が抜群の天才」というのは本当に一握りです。
灘高の場合、高校ならだいたい1学年220人ですが、このうち本当の天才は10~20人です。
さらなる桁違いを探せばもっと数は少ないのです。
確かにこういった人たちがかなりの数目指す志望大学や志望学部を志望する人にとってはなかなかにツライところではありますが、たいていの場合は無視できるほどの数であるということを忘れてはいけないと思います。
一部だけを見れば、『努力が才能を凌駕する』ことはありません。
ただ全体的に見れば『努力が才能を凌駕する』ことは多々あるのです。
厳密には『努力でカバーする人が戦う相手は、たいていの場合、同じ努力型の人だ』といういうことです。
ついつい才能だけで抜き去ってしまう人を見ると羨ましくも思いますし、かなわないようにも思えるかもしれません。
でも大丈夫です。
そんな人と戦わないといけない場自体が非常に少ないのです。
これで言い訳はできなくなりましたね。
僕たちは『いかに多くの努力をしたかで勝敗が決する世界』でほとんどの場合戦っているということです。
なら、自分が本当に必死になれる世界で必死になり尽くすことが重要ではないでしょうか。