自分の中ではそこそこ順調にキャリアアップをしてき、結果すでに大学4回生を迎えるに至りました。
世間では大学3回生の頃から就職活動(就活)を始め、大学4回生では内定をもらっていくというのが典型の学年だと思います。
実は僕も塾講師・予備校講師とは全く異なった種類の、英語を活かすことができる職業の可能性も考え、そのような企業を本当にわずかにだけ受けていました。と言っても半分以上は親の意志で受けたようなものでもあったので、あまり本気にはなれていなかったのですが…。
今回はいつもとは趣向を変えて、この時の話を書いてみようと思います。
そんな中内定をもらうこともできました。もし僕がその道に進んでいれば、今よりはるかに安定した職業で、かつ極端に言ってしまえば、日本でも有数の企業に入り世界をまたにかけて働くこともできたのかもしれません。
しかし、結局はその内定を断り、塾講師・予備校講師として生きていくことを選択したのです。
普通このような決断をすると親は怒るものなのかもしれません。
しかし、僕の親自身、高校までしか行っておらず、高校卒業から日本有数の企業に就職したもののすぐに辞めてしまい、それ以降自営業の道を選んできた人物でもあったので、その姿を見て育った僕が、サラリーマンとして働くことを親自身が想像できなかったようです。
つまりは、僕を試したのだと思います。親の姿を見ながら育った僕が、親と同じような自営業や、それに近い職業を選ぶのか、それともサラリーマンになっていくのか、試してみたかったのかもしれません。
実際に「内定を断るよ」という話をすると、「やっぱりか」という返答が返ってきました。
やはり、僕も親の子。同じような血が流れているのだと思います。僕が今現在も職人気質であるのは、この親の影響もかなりあるのではないかと思うほどです。
一見順調に見える僕の塾講師としてのキャリアアップも、他の職業の内定を断り、塾講師・予備校講師として生きていく以外に術がない状況へとなったことでより一層加速するに至ったのです。
この時期にはすでに塾講師・予備校講師というのは『傾斜産業』であると言われていました。つまり、僕は完全に地雷の中に突っ込んだと言うか、安定の道を完全に捨て、自分自身危険な道を歩んでいく決心をした年でもありました。
このような経過により、僕の大学4回生時点での仕事(世間的にはバイト)に対する思いは他の人とは比べようがないものへと変わっていくに至ったのです。
世間では大学3回生の頃から就職活動(就活)を始め、大学4回生では内定をもらっていくというのが典型の学年だと思います。
実は僕も塾講師・予備校講師とは全く異なった種類の、英語を活かすことができる職業の可能性も考え、そのような企業を本当にわずかにだけ受けていました。と言っても半分以上は親の意志で受けたようなものでもあったので、あまり本気にはなれていなかったのですが…。
今回はいつもとは趣向を変えて、この時の話を書いてみようと思います。
そんな中内定をもらうこともできました。もし僕がその道に進んでいれば、今よりはるかに安定した職業で、かつ極端に言ってしまえば、日本でも有数の企業に入り世界をまたにかけて働くこともできたのかもしれません。
しかし、結局はその内定を断り、塾講師・予備校講師として生きていくことを選択したのです。
普通このような決断をすると親は怒るものなのかもしれません。
しかし、僕の親自身、高校までしか行っておらず、高校卒業から日本有数の企業に就職したもののすぐに辞めてしまい、それ以降自営業の道を選んできた人物でもあったので、その姿を見て育った僕が、サラリーマンとして働くことを親自身が想像できなかったようです。
つまりは、僕を試したのだと思います。親の姿を見ながら育った僕が、親と同じような自営業や、それに近い職業を選ぶのか、それともサラリーマンになっていくのか、試してみたかったのかもしれません。
実際に「内定を断るよ」という話をすると、「やっぱりか」という返答が返ってきました。
やはり、僕も親の子。同じような血が流れているのだと思います。僕が今現在も職人気質であるのは、この親の影響もかなりあるのではないかと思うほどです。
一見順調に見える僕の塾講師としてのキャリアアップも、他の職業の内定を断り、塾講師・予備校講師として生きていく以外に術がない状況へとなったことでより一層加速するに至ったのです。
この時期にはすでに塾講師・予備校講師というのは『傾斜産業』であると言われていました。つまり、僕は完全に地雷の中に突っ込んだと言うか、安定の道を完全に捨て、自分自身危険な道を歩んでいく決心をした年でもありました。
このような経過により、僕の大学4回生時点での仕事(世間的にはバイト)に対する思いは他の人とは比べようがないものへと変わっていくに至ったのです。