競技場は海辺のリゾート地帯にあり、周辺には高級ホテルや別荘が林立するが、少し郊外に出ると景色は打って変わり、点在する集落には貧しい家々が並ぶ。そこには、食料を配って歩く日本人女性の姿があった。
日本語教師の吉村峰子さん(52)はダーバンに住んで7年。ボランティア団体に加わり、月1回のペースで村々を巡り、主食となるトウモロコシの粉、缶詰などを詰めたバッグを配る。「ここにはあすの食料さえままならない人もいます。その生活の支えに少しでもなってほしい」。最初に車から降ろしたポテトチップスの袋は、子供たちの輪に年配の人も加わり、あっという間になくなった。
アフリカを初めて訪れたのは1986年。国際協力機構(JICA)職員だった夫稔さんの転勤に伴い、リベリア、エチオピアなどに住んだ。帰国の辞令が出たが、稔さんは「まだアフリカで働きたい」とJICAを退職し、2003年に一家4人でダーバンに移り住んだ。
稔さんの新たな目標はオートバイ輸出入業の会社を興すこと。その傍ら、夫婦は地元のエイズ療養院「ドリームセンター」の支援活動を始める。公立病院が治療を投げ出した患者を引き取り、余生を過ごしてもらう施設。100人余りを収容し、運営費は地元保健省の補助金や寄付で賄っていた。
南アのエイズ患者は世界最大の570万人。労働人口の約2割に上る。ウイルスの増殖を抑える薬が高くて一般に行き渡らず、感染に歯止めがかからないのだ。ところが、センターは昨年3月に突然、保健省の補助金が打ち切られ、閉鎖に追い込まれた。関係者からは省内の人事抗争とも、わいろを贈らなかったためとも伝えられた。
「この国では立場の弱い人々がいつも政治に翻弄(ほんろう)される」。吉村さんは、担架や車イスに乗った患者が次々にセンターを追い出される様子をなすすべもなく見送ったという。
今年3月、稔さんが53歳で亡くなった。趣味の岩登りに出かけて転落死したのだ。この3か月は、やり場のない悲しみを抱えながら、サッカーの祭典の準備を急ぐ街を見ていた。
「日本での東京五輪みたいになればいいな」。夫はW杯開催を歓迎していた。JICAにいた頃は、「立派な橋や道路をただつくって与えるだけでは、貧しい人たちの生活はよくならない」と口癖のように言っていた。人々が自発的に国を豊かにしようと目指すことが、貧困やその副産物であるエイズの撲滅につながる――。夫はそう考えていたのだろう。
最近では食料を配るボランティアに、現地の大学に通う長男寛慈さん(21)も参加している。「助けを必要とする人々がいる限り、私にはやらなければいけないことがある」。日本は恋しいけれど、しばらくはこの国から離れないつもりだ。
対照的だな。
俺には、出来ないしやる気がない。
だって、自分の生活が第一だから。
治安が悪いし、心臓に悪そうだから。
でも、バイクで走ったら気持ちがいいべな。
本日も、出荷するホヤはいまいちだ。
どうすんべかね。