●七種山(兵庫100名山)に登る
数日前から私が愛用している登山用腕時計の "CASIOプロトレック" が不調に陥ってしまい困っていたのだ。
電波時計ですから時刻が狂う事はこれまでに一度もなかったのにでたらめな時刻表示が出て全く使い物にならず。
CASIOのカスタマーセンターで時刻修正の手法をご指南して貰って時計機能は回復したが高度・気圧計の精度はどうであろうか?
それを確認する為に近場の山に登る事にしました。
此度の目的地は兵庫県福崎町の "七種山(標高687m)" です。
それでは行ってみましょう。
2023/11/14(火)
自宅を出発して七種山の登山口に向かう。
福崎町青少年野外活動センターの傍に横たわる "" に映る周囲の山々の景観が非常によろしい。
思わず車を降りてカメラのシャッターを切る。
(田口奥池)
七種川沿いに進めば "旧作門寺の山門" でここに駐車して出発です。
水場らしき場所も見られたが飲用不可のプレートが掛かっていました。
七種山頂上までの距離は2.1㎞と記された道標も有ります。
また七種山の由来を記した解説板にも目を通しておく。
(旧作門寺の山門)
林道沿いに歩を進めて行きます。
緩やかな上り坂でウオーミングアップには丁度よい按配と言える。
15分程で七種神社登山口の広場に着きます。
直進すれば七種神社で左折して山腹を進めば滝見台へ繋がる遊歩道。
下山時には滝見台を通過する予定だからこの遊歩道を下る事になる筈だ。
(七種神社登山口)
七種神社への道を進むと程なく "虹ヶ滝" に差し掛かる。
手前に架かるアーチ型の赤い太鼓橋を渡る。
太鼓橋の向う側に見えるのが虹ヶ滝です。
(虹 ヶ 滝)
虹ヶ滝を過ぎればジグザグの登りに転じます。
トラバース道を経由して八龍の滝に出る。
道なりに登れば左前方に "七種の滝" が見えて来ます。
(七種の滝)
石段を上れば七種神社の境内に入ります。
赤い屋根の社殿を見上げながら一歩ずつ上って行く。
鬱蒼とした森の中に建つ神社は山中のオアシスの様な存在だな。
(七種神社の石段)
七種神社の社殿に着くけば七種の滝の全貌を眺められる。
落差72mと言う滝は水量は多くはないが女性的な景観と言えそう。
滝のスケールが大きく見応えは十分過ぎます。
何度も自分撮りを試みたが悉く失敗して漸くこの作品を得られた。
ここから "頂上までは50分" との道標が有りますが私がそんなに早いペースで登れるかな?
(七種の滝)
固定ザイルが設置された急斜面の岩場を10分程登れば滝見台・七種山分岐に出る。
滝見台への道は下山に使う予定だからここは右折して頂上に向かう。
ここの標高は440mですから頂上までの高度差は220m程なので1時間は掛かりそうだな。
(滝見台遊歩道分岐)
まだまだ急登は果てしなく続く。
標高570m付近の大きな岩場にて小休憩を取る。
更に登れば展望が利く岩場に着いたのでここで再び休憩です。
せめて展望を見る時間くらいは十分に確保したい。
(展 望 所)
此方は展望所からの眺望です。
播磨の山々が展望できますが山座同定は出来ません。
以下に3枚の写真をアップしておきますのでご覧下さい。
(展望所からの眺望 ①)
(展望所からの眺望 ②)
(展望所からの眺望 ③)
展望所から頂上の距離は110mですからもうひと息です。
最後の登りをクリアすればやがて頂上に着く。
頂上は樹木に囲まれて展望はイマイチだが少し離れた "つなぎ岩" に移動すれば頗るよろしい。
"七種山の標柱" をバックに登頂写真を撮っておきます。
(七種山頂上)
つなぎ岩からの展望を堪能しましょう。
足元が切り立っているので注意しながら眺望を楽しむ。
展望写真2枚をアップしておきます。
(つなぎ岩からの眺望 ①)
(つなぎ岩からの眺望 ②)
つなぎ岩の先には "笠岩" が有るとの事なので行ってみましょう。
急な岩塊帯を抜けて12分で到着です。
三角形の岩で有るが岩の上には登れずトラバースして通り過ぎる。
私の予想ではこのまま踏み跡に沿って辿れば下山できると思っってピンテに従って直進して20分程下ったがやがて踏み跡は消えてピンテも消滅。
"これはヤバい!" と判断して深入りしないうちに引き返す事を決める。
疲れてはいるが下って来た急斜面を登り返して笠岩経由で頂上に戻る。
( 笠 岩 )
七種山頂上から往路を下って滝見台分岐を直進して行く。
分岐から10分で休憩ベンチが設置された滝見台に着きました。
滝見台と呼ばれるからには何処かの滝が見られると思った。
その滝とは "七種の滝" ですが距離的にかなり遠いので迫力はイマイチ。
青空に緑の山が映える風景がいいですな!
(滝見台からの眺望)
13:40に出発地点(旧作門寺山門)に帰って来ました。
無事に此度の山行を終えられてホッとした瞬間です。
いくら初心者向けの山でも無事故での下山が最も大切な事である。
山を舐めたらとんでもないしっぺ返しを食らう事になりかねないのだ。
(旧作門寺山門)
此度の目的だった高度計の誤差確認ですが七種山頂上では615mを表示していたが実際の標高は683mですから68m低く表示されていた訳です。
私としてはせめて±50mの誤差ならば許容範囲と思っていたが少し想定外。
それでも高度計は気圧によって高度を測るから当日の気象条件による変動は致し方ない面もある。
要は基準となる登山口での数字を整合して置けば大丈夫なのかな?
そんな訳で此度の山行を終えました。
(コースタイム)
旧作門寺山門(09:45)~登山口(9:00~05)~七種の滝(9:20~26)~滝見台分岐(9:37)~大きな露岩の広場(1000~03)~展望所(10:14~22)~頂上&つなぎ岩(10:27~48)~笠岩(11:00)~分岐(11:07)~引き返し地点(11:29)~笠岩(11:51)~頂上(11:59~12:02)~展望所(12:03~05)~滝見台分岐(12:34)~かくれ滝(12:39)~滝見台(12:44~49)~平成の滝見台(12:55)~登山口(13:03~20)~旧作門寺山門(13:40)
●植村直己冒険館を拝観(後編)
2023/11/10(金)…後編
展示室から出て通路に入りますと壁には "エベレスト登山隊" に関する解説板が有掲げられていました。
此方は日本人として初めてエベレスト登頂に成功した時の言葉 "9時10分。ただいまエベレストの頂上に着きました!" についての解説板。
前述の通り植村&松浦の両隊員が日本人初登頂を成し遂げた。
(エベレスト登山隊 ①)
その時のルートを詳細に記したのが此方の絵図。
彼らが辿ったルートが詳細に描かれています。
極地法と呼ばれるタクティクスを駆使しての登頂でした。
初登頂の後には別ルート(南壁ルート)での登頂を目指したが此方は標高8050m地点で撤退となったが日本の登山界にとっては歴史的な快挙でした。
(エベレスト登山隊 ②)
植村直己の登山家以外のもう1つの顔としては冒険家が挙げられる。
アマゾン川6000㎞を筏下りを成功させたり北極での活動など。
此方の解説板には北極に於ける "犬橇での3000㎞の冒険" についての事が記されています。
彼が経験した困難を乗り切る姿が感動的です。
(北極での犬橇の旅)
冒険家として歴史に名を刻んだ植村氏に因んで日高町が制定したのが "植村直己冒険賞" です。
日本人の中で顕著な冒険を成し遂げた人に与えられる賞で先行員によって毎年1名が選定されます。
此方がその賞についての解説板ですから拡大クリックしてご覧下さい。
(植村直己冒険賞)
前述の賞に輝いた人の中に "神田道夫氏(2000年度)" が居ました。
熱気球による世界記録を幾つか樹立した方でした。
彼は熱気球による太平洋横断に挑戦すると言う冒険を試みたが三度目の挑戦時にアリューシャン沖で行方不明となった。
彼が遭難時に乗っていたゴンドラは "スターライト号" ですが何年か後に悪石島(鹿児島県)に漂着して人々を驚かせたと言うエピソードが有ります。
(神田道夫の冒険 ①)
此方が奇跡的な漂流の末に回収されたスターライト号です。
当然ながら神田氏の姿は見付からずその行方は永遠に分からず。
展示されたスターライト号の傍で記念撮影。
(神田道夫の冒険 ②)
私は神田道夫氏については全く知りませんでしたが此方の解説板を読んでそれを知りました。
単独で冒険に挑んで最後は人知れず消えて行ったのは植村氏との共通点です。
何れにしても冒険心を燃やしてチャレンジした事は称賛されるべき。
(神田道夫の冒険 ③)
2023年度の植村直己冒険賞の受賞者は野村良太氏(北海道)らしいです。
彼についての特別展が設けられて居ました。
北海道の分水嶺ルートの連続踏破に成功した事が受賞の理由。
元からして登山道が存在しないルートですから歩くのは藪が積雪で覆われる積雪期に限られるが当然ながら冬季の北海道の気候が厳しいのは周知。
そんな中での挑戦に挑んで成功を収めたのですからスゴ過ぎ。
此方のテントは彼が使った物です。
(野村良太氏の冬季用テント)
野村氏が使った山道具が展示されます。
スキー板、コンロ、テントシューズ、スキーアイゼン、ザック等々。
これらの道具を完全に使い熟せてこそ冒険が可能となるのです。
(野村良太氏の山道具)
"これで館内は網羅したかな?" と思ってパンフレットを再確認してみたら見逃した部屋に気付きましたから其方へ。
渡り廊下を通って展示室の方に戻ります。
私のバックに見えるガラス張りの部屋は館内のカフェです。
外は小雨で肌寒い。
(渡り廊下)
私が見逃したのは "南極体験コーナー" です。
此方の部屋には植村氏が実際に南極で使った犬橇、極地用テントが展示されており拝観者は自由に犬橇に乗ったりテントの中に潜り込むのもOK。
その他にはエベレスト頂上への最終アタック時に背負ったザック(重量25㎏)も有って試しに背負う事も出来る。
私も長年に渡って登山をやって来ましたが25㎏のザックを背負ったのは31歳の時に敢行した富良野岳~トムラウシ~旭岳への縦走山行の時だけ。
エベレスト頂上でこんな重荷を背負うなど私にはとても考えられない。
この部屋の中で記念撮影です。
(南極体験コーナー ①)
此方は極地用テント&犬橇です。
当に植村氏の活動が実感できる部屋ですな。
(南極体験コーナー ②)
世界№1の登山家と言えば "ラインホルト・メスナー氏(イタリア)" を挙げる人が多いであろう。
エベレストへの無酸素登頂を始め8000m峰を踏破するなどその最強さ自他共に認める存在。
この施設には彼からピッケルが贈られておりそれが展示される。
(ラインホルト・メスナー)
これで館内の展示品は網羅したと判断した。
時刻は16:35ですから拝観時間は3時間40分にも及びました。
いつもの私らしくじっくりと時間を掛けた拝観となったのです。
最後に受付の方にお願いして館内の通路にて写真を撮って貰う。
(館内の通路)
退館後は冒険館の屋上に移動します。
屋上の壁には植村氏の生涯についての写真並びに解説文が記されております。
館内にも同様の展示が有りますから言うならば "復習" の様なものでしょうかな? (笑)
(冒険館の屋上)
雨は未だ止まずに降り続く。
帰りは往路を引き返すのみだが陽が短い季節に加えて雨天の為に暗くなるのが予想以上に速かった。
県道482号線は明延鉱山の傍を通過するが幅員は狭くてアップダウンが続くカーブの連続で運転が非常に怖かった。
一宮町でR29に合流して漸く安堵しました。
往復182㎞の長いドライブの終着点である自宅に着いたのは19:25となった。
●植村直己冒険館を拝観(前編)
以前の記事で述べました様に兵庫県が輩出した登山界の偉人と言えば "加藤文太郎&植村直己" の2人で異論はなかろう。
植村直己は豊岡市日高町出身の登山家兼冒険家でして彼の偉業を称える為の施設が "植村直己冒険館" (以下、冒険館と略記)です。
この施設については今夏に竹野海岸に行った時に傍を通過したが立ち寄る事はしませんでした。
後日に訪れる機会が有ると踏んだからです。
11/10は全国的に雨との予報でしたからこの日に訪れてみる事にした。
雨の日は屋外での活動は出来ないからちょうど良い機会であろう。
午前10時前に自宅を出発して現地に向かった。
2023/11/10(金)…前編
カーナビを設定して9:45に目的地(冒険館)に向かう。
雨の中を運転して現地に着いたのは12:35でした。
道標に従って冒険館の入口に向かって進む。
その途上で冒険館の外観を撮影しておきます。
(植村直己冒険館の外観)
冒険館の入口に続く通路です。
両側を壁に挟まれた狭いスロープの先に入口が有ります。
それでは行ってみよう。
(入口のスロープ)
入館料は550円ですがカード払いも出来ました。
まずはシアターにて植村氏に関する映像を観賞する。
これは拝観に当たっての予備知識を得るには役に立ちます。
受付で頂いたパンフレットを見ながら展示室の入口に向かう。
植村氏の冒険歴を記した写真パネルが有るここから拝観が始まる。
(展示室の入口)
1941年2月12日に兵庫県日高町に7人兄弟の末っ子として誕生した植村氏だがあまり目立つ存在ではなかったものの自宅周辺の自然の中で遊ぶ事が多く活発な子供として成長した。
彼が初めて登山を行ったのは高校時代に遠足として地元の "蘓武岳(標高1074m)" だったと言うのだから意外。
(生い立ち)
高校を卒業した彼は運送会社に就職するが明治大学に合格した事に伴い退職。
入学後に門を叩いたのが "山岳部" であった。
彼にとっては1ヶ月以上も山岳部の部室の扉の前で悩んだ末の決断でした。
その当時の骨董品とも言える扉が展示されていました。
係員が仰るにはこの品はつい最近に展示品に加わったそうだ。
その他にキスリング、ピッケル、山行の日報帳などが見られる。
この決断が彼の運命を決める事になるのです。
(明大時代)
卒業後は米国に渡航していたが就労ビザを所持していなかった事が発覚して強制退去扱いとなり欧州に渡る。
フランスのスキー場で働きながら山への憧れを更に育む。
この期間にモンブラン、アコンカグア(南米大陸の最高峰)、ゴジュン・バカン(明大登山隊に参加)して登頂などを果たす。
(海外へ羽搏く)
壁に所狭しと展示された此方の品々は植村氏が登山の時に使った "山道具" 。
3本のピッケル、アイスハンマー、アルパイン用の二重靴、アイゼン、防寒用ジャケット、ウールのセーター等々。
特に私の目を引いたのが前述の二重靴でした。
初めて見た巨大な登山靴には驚きしか有りませんでした。
(各種の登山用具)
エベレストは1953年に初登頂が記録されたが日本人は未だその頂上に立った人は誰も居なかった。
日本のエベレスト登山隊に招集された植村氏は最終アタック隊員に選ばれて同伴した松浦輝夫氏と登頂に成功する。
この2人がエベレストを制した初めての日本人となったのだ。
この偉業に当たって彼は "登頂の偉業は隊員全員のもの!" と謙虚さを失う事は有りませんでした。
人は得てして偉業を達成してしまうと高慢になり大言壮語する事もまま有るが彼にはそんな面は微塵もなかった様だ。
(エベレスト登山隊)
エベレストのミニチュア模型が展示される。
こうやって見ればエベレストには数多くの登山ルートが存在する事が分かります。
当然ながらどれも困難な登高になる事に違いはない。
世界中の登山家が目指すに値する世界最高峰の山であるが故だ。
(エベレストのミニチュア模型)
植村氏は登山の他に極地での冒険を志した。
その1つに南極大陸でしてそれに備えて用意周到な準備を行った。
その準備として稚内~鹿児島までの3000㎞を徒歩で歩き通す事も行った。
そして現地入りして出発の準備中に "フォークランド紛争(英国vsアルゼンチン)" が勃発してアルゼンチン軍の協力が望めなくなり断念するハメに陥る。
彼は南極大陸の犬橇行き並びに南極大陸最高峰のビンソンマシフ(標高4892m)の登頂も計画していたが果たせず。
(南極行きを断念))
植村氏の凄いところは冒険を実行する為には不断の努力を払う事。
現地の住民達と同化して彼らから極地に於ける衣食住の知恵を吸収して自分のものとしてしまうのだ。
北極ではイヌイットの家に住まわせて貰い狩猟、捕獲動物の解体なども学んだ。
これが現地の方々からも愛され慕われた所以でもある。
(現地の人々とのふれあい)
此方の写真は展示室での自分撮り。
せっかく来館したのだから写真の1枚は撮っておきたい。
(館内にて自分撮り)
北極での装備がたくさん。
防寒用のジャケット&セーター、防寒靴、狩猟用の銛、幕など。
(北極での装備 ①)
此方も北極で使った装備です。
最も大きいのが見ての通りの "犬橇" です。
その他には高度計、無線機、スノーソーが見られる。
(北極での装備 ②)
植村氏が活動する部隊は世界に名だたる高峰並びに極地ですから極寒地ばかり。
そんな厳しい環境の中でも機能するグッズを要した。
此方のカメラはNikon製の "ナオミスペシャル" と呼ばれた特注品。
厳寒地に於いても支障が無い様にあれこれと工夫が盛り込まれた逸品
テントも同じで厳寒地でも設営が楽に出来る様に工夫された物。
(ナオミスペシャル)
犬橇を引くエスキモー犬を戯れる植村氏。
彼の冒険を支えてくれる犬たちへの愛情はとても深かった。
犬とのエピソードも幾つか有ります。
(エスキモー犬)
南極行きを断念せざるを得なかった植村氏は更なる冒険として "冬季マッキンリー単独登頂" と言うとてつもない山行に向かう。
これは世界初のかなりの困難を伴う計画だった。
1984年2月12日(彼の43歳の誕生日)にマッキンリー登頂を果たしてその下山中に行方不明となりその遭難状況は永遠の謎となった。
冒険家として生涯を過ごした彼には悔いはなかっただろう…。
(マッキンリーへ)
マッキンリーから帰った後に植村氏は北海道に野外学校を
開校して日本の子供達に自然と触れ合う事の素晴らしさを説く計画だったらしい。
その為に米国ミネソタ州にてそのノウハウを身に付けるべく努力を重ねていましたがその夢は叶う事はなかった。
(野外学校への準備)
私のバックの壁に記されている言葉は植村氏が述べた言葉。
"始まるのを待っていてはいけない。自分で何かやるからこそ何かが起こるのだ。" と記される。
"他力本願ではなくて自らアクションを起こせ!" と言う意味だが確かにその通り。
(植村直己の言葉)
これで展示室はひと通り網羅したと得心しました。
次は通路に出て渡り廊下を進んで別棟に移ります。
(後編に続く)