●植村直己冒険館を拝観(前編) | マウンテンフリークのブログ

●植村直己冒険館を拝観(前編)

以前の記事で述べました様に兵庫県が輩出した登山界の偉人と言えば "加藤文太郎&植村直己" の2人で異論はなかろう。

植村直己は豊岡市日高町出身の登山家兼冒険家でして彼の偉業を称える為の施設が "植村直己冒険館" (以下、冒険館と略記)です。

この施設については今夏に竹野海岸に行った時に傍を通過したが立ち寄る事はしませんでした。

後日に訪れる機会が有ると踏んだからです。

11/10は全国的に雨との予報でしたからこの日に訪れてみる事にした。

雨の日は屋外での活動は出来ないからちょうど良い機会であろう。

午前10時前に自宅を出発して現地に向かった。

 

 

   2023/11/10(金)…前編

カーナビを設定して9:45に目的地(冒険館)に向かう。

雨の中を運転して現地に着いたのは12:35でした。

道標に従って冒険館の入口に向かって進む。

その途上で冒険館の外観を撮影しておきます。

 

(植村直己冒険館の外観)

冒険館の入口に続く通路です。

両側を壁に挟まれた狭いスロープの先に入口が有ります。

それでは行ってみよう。

 

(入口のスロープ)

入館料は550円ですがカード払いも出来ました。

まずはシアターにて植村氏に関する映像を観賞する。

これは拝観に当たっての予備知識を得るには役に立ちます。

受付で頂いたパンフレットを見ながら展示室の入口に向かう。

植村氏の冒険歴を記した写真パネルが有るここから拝観が始まる。

 

(展示室の入口)

1941年2月12日に兵庫県日高町に7人兄弟の末っ子として誕生した植村氏だがあまり目立つ存在ではなかったものの自宅周辺の自然の中で遊ぶ事が多く活発な子供として成長した。

彼が初めて登山を行ったのは高校時代に遠足として地元の "蘓武岳(標高1074m)" だったと言うのだから意外。

 

(生い立ち)

高校を卒業した彼は運送会社に就職するが明治大学に合格した事に伴い退職。

入学後に門を叩いたのが "山岳部" であった。

彼にとっては1ヶ月以上も山岳部の部室の扉の前で悩んだ末の決断でした。

その当時の骨董品とも言える扉が展示されていました。

係員が仰るにはこの品はつい最近に展示品に加わったそうだ。

その他にキスリング、ピッケル、山行の日報帳などが見られる。

この決断が彼の運命を決める事になるのです。

 

(明大時代)

卒業後は米国に渡航していたが就労ビザを所持していなかった事が発覚して強制退去扱いとなり欧州に渡る。

フランスのスキー場で働きながら山への憧れを更に育む。

この期間にモンブラン、アコンカグア(南米大陸の最高峰)、ゴジュン・バカン(明大登山隊に参加)して登頂などを果たす。

 

(海外へ羽搏く)

壁に所狭しと展示された此方の品々は植村氏が登山の時に使った "山道具" 。

3本のピッケル、アイスハンマー、アルパイン用の二重靴、アイゼン、防寒用ジャケット、ウールのセーター等々。

特に私の目を引いたのが前述の二重靴でした。

初めて見た巨大な登山靴には驚きしか有りませんでした。

 

(各種の登山用具)

エベレストは1953年に初登頂が記録されたが日本人は未だその頂上に立った人は誰も居なかった。

日本のエベレスト登山隊に招集された植村氏は最終アタック隊員に選ばれて同伴した松浦輝夫氏と登頂に成功する。

この2人がエベレストを制した初めての日本人となったのだ。

この偉業に当たって彼は "登頂の偉業は隊員全員のもの!" と謙虚さを失う事は有りませんでした。

人は得てして偉業を達成してしまうと高慢になり大言壮語する事もまま有るが彼にはそんな面は微塵もなかった様だ。

 

(エベレスト登山隊)

エベレストのミニチュア模型が展示される。

こうやって見ればエベレストには数多くの登山ルートが存在する事が分かります。

当然ながらどれも困難な登高になる事に違いはない。

世界中の登山家が目指すに値する世界最高峰の山であるが故だ。

 

(エベレストのミニチュア模型)

植村氏は登山の他に極地での冒険を志した。

その1つに南極大陸でしてそれに備えて用意周到な準備を行った。

その準備として稚内~鹿児島までの3000㎞を徒歩で歩き通す事も行った。

そして現地入りして出発の準備中に "フォークランド紛争(英国vsアルゼンチン)" が勃発してアルゼンチン軍の協力が望めなくなり断念するハメに陥る。

彼は南極大陸の犬橇行き並びに南極大陸最高峰のビンソンマシフ(標高4892m)の登頂も計画していたが果たせず。

 

(南極行きを断念))

植村氏の凄いところは冒険を実行する為には不断の努力を払う事。

現地の住民達と同化して彼らから極地に於ける衣食住の知恵を吸収して自分のものとしてしまうのだ。

北極ではイヌイットの家に住まわせて貰い狩猟、捕獲動物の解体なども学んだ。

これが現地の方々からも愛され慕われた所以でもある。

 

(現地の人々とのふれあい)

此方の写真は展示室での自分撮り。

せっかく来館したのだから写真の1枚は撮っておきたい。

 

(館内にて自分撮り)

北極での装備がたくさん。

防寒用のジャケット&セーター、防寒靴、狩猟用の銛、幕など。

 

(北極での装備 ①)

此方も北極で使った装備です。

最も大きいのが見ての通りの "犬橇" です。

その他には高度計、無線機、スノーソーが見られる。

 

(北極での装備 ②)

植村氏が活動する部隊は世界に名だたる高峰並びに極地ですから極寒地ばかり。

そんな厳しい環境の中でも機能するグッズを要した。

此方のカメラはNikon製の "ナオミスペシャル" と呼ばれた特注品。

厳寒地に於いても支障が無い様にあれこれと工夫が盛り込まれた逸品

テントも同じで厳寒地でも設営が楽に出来る様に工夫された物。

 

(ナオミスペシャル)

犬橇を引くエスキモー犬を戯れる植村氏。

彼の冒険を支えてくれる犬たちへの愛情はとても深かった。

犬とのエピソードも幾つか有ります。

 

(エスキモー犬)

南極行きを断念せざるを得なかった植村氏は更なる冒険として "冬季マッキンリー単独登頂" と言うとてつもない山行に向かう。

これは世界初のかなりの困難を伴う計画だった。

1984年2月12日(彼の43歳の誕生日)にマッキンリー登頂を果たしてその下山中に行方不明となりその遭難状況は永遠の謎となった。

冒険家として生涯を過ごした彼には悔いはなかっただろう…。

 

(マッキンリーへ)

マッキンリーから帰った後に植村氏は北海道に野外学校を

開校して日本の子供達に自然と触れ合う事の素晴らしさを説く計画だったらしい。

その為に米国ミネソタ州にてそのノウハウを身に付けるべく努力を重ねていましたがその夢は叶う事はなかった。

 

(野外学校への準備)

私のバックの壁に記されている言葉は植村氏が述べた言葉。

"始まるのを待っていてはいけない。自分で何かやるからこそ何かが起こるのだ。" と記される。

"他力本願ではなくて自らアクションを起こせ!" と言う意味だが確かにその通り。

 

(植村直己の言葉)

これで展示室はひと通り網羅したと得心しました。

次は通路に出て渡り廊下を進んで別棟に移ります。

 

 

                       (後編に続く)