華 佗(か だ)字は元化。沛国 譙県の人である。徐州に出て学問をし、いくつかの経書に通じた。沛国の相(長官)であった。
陳珪が孝廉に推挙し、太尉の黄琬は自分の幕府に招いて官につけようとしたが、いずれもそれを断った。
養性格の術の通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳にもなるはずだとしたが、見たところ若々しかった。
また薬品の処方に詳しく、病気治療のために薬を煎じる場合には、数種の薬材を用いるだけで、目分量でちゃんと調合して、秤など用いることはなかった。
薬を煮終わると病人に飲ませ、あとの養生法を告げて、そのまま立ち去ったが、例外なく快癒した。
灸をすえるときには、一、二箇所だけで、それぞれの箇所にも七、八回を出なかったが、病気はそれですぐに治った。
鍼を打つ場合にも、一、二箇所だけで、鍼を打つときには患者にいった「これこれの場所まで刺すが、もし痛みがあったらいいなさい。」患者が「痛みがありました」というと、すぐさま鍼を抜いた。
病気はこれだけでやがて治った。
もし病気が内部でこり固まって、鍼も薬も役に立たず、切開する必要がある場合には、患者に彼特製の麻沸散(麻酔薬)を飲ませた。飲むと間もなく患者は酔っぱらって死んでしまったように何の感覚もなくなる。
そこで患部を切り取った。病気が腸の中にある場合には、腸を切り取ってきれいに洗い、縫合し膏薬をつけてマッサージすると、四、五日でほぼ痛みがなくなる。患者はずっと気付かぬままで、一か月もすると本復するのであった。