今年2017年も、のこり2週間を切りました。
冬季計画もスタートして、来年2018年は日中国交正常化40周年記念もあり、
今のうちからいろいろと武術活動での準備に入っています。
日本国内には、ヨガエクササイズやピラティスなどのフィットネス普及事業では、たくさん専門学校形式のものが多いのですが、
中国武術や太極拳、健身気功の学校は未だに存在していません。
そのために、私は1985年から本場中国での専門学校や武術隊で毎年1~2か月の短期留学を繰り返し、
32年間経った今日まで来ています(※ここ10数年間は毎年1週間の研修団を率いて行って来ました)
振り返ってみると20代の頃は1年間とか、数年間の長期留学生が羨ましく感じることもありましたが、
私は徹して、一個人でも長い時間かけて、日本に帰国しても、技能だけでなく、
武術理論(教学法、思想哲学、中国武術史)の勉強も続け、
武術専門学校で学んだことを繰り返し、練功をし続け、時間をかけて長く「中国武術文化」の研究も行って来ました。
その中で、やはり「中国武術思想」は本当に「中国武術」を修めるのに必修、必須であることを改めて思います。
中国武術思想は、老子、荘子などの道家思想的心性」
孔子、孟子、荀子などの「儒家思想的規範性」
そして釈迦如来の説いた「仏家思想的解釈性」の3つを包括したものになっています。
今日はその中で「道家思想的心性」の象徴的な一文を紹介したいと思います。
安徽省亳州市にある老子の郷里、「渦陽」にて(2007年)
老子を祀っている「道徳中宮」
「荘子」の文献に 孔子とある老子とが出会った時の問答の様子が出てきます。
老子と孔子が出会った時の会話。
老子は、孔子に向かって こう語りかけ始めました。
人間には八つの欠点があり、仕事には四つの心配ごとというのがある。注意しなければならないことだよ。
(八つの欠点、というのは)
・自分の仕事でもないのに、それを自分の仕事にする、これを何でも屋 という。
・ふりかえりもしないのに無理に進言する、これを口達者という。
・相手の心をうかがいながらそれに迎合した話し方をする、これを諂い。という。
・正しいかどうかにおかまいなく調子を合わせて話し込む、これをおもねりという。
・すぐに他人の悪事を言い立てる、これを悪口という。
・人の交際を引き裂き 親しい仲をひき離す、これを賊害という。
・誉めたあげたうえで 騙して人を陥れる、これを邪悪という。
・善いか悪いかにおかまいなく、両方とも気に入ったように受け入れながら、自分の望むことだけを抜き取って利用する これを陰険という。
この八つの欠点があると外では他人を混乱させ、
内は我が身をだめにすることになって、有徳の君子からは友だちにされず、
聡明な君主には臣下にされないものだ。
さて四つの心配事といったのは、
・何かにつけて、大きな仕事に手をつけ、普通の定まったやり方を変更して、それで功名をあげようと狙っている。これを強つくばり という。
・考えることも勝手なら、仕事も勝手。 それで他人を侵害して自分の利益を図る。これを貪欲という。
・過失が判っても改めようとせず、人に諌められると一層ひどいことをする。これを臍曲がりという。
・自分に同調することを好しと認めるが、同調しないと良い意見でも良いと認めない。これを一人よがりという。
以上が四つの心配ごとだ、
「八つの欠点」を除くことができて、「四つの心配ごと」を行わないでおれるなら、
そこで始めて真実を教えられるのだ。
孔子は身をひきしめて嘆息すると、二度の拝礼をしてから口を開いた。
私は二度も魯の国から追放され、衛の国では足跡を消されるまで排斥され、
宋の国では 大木を切り倒されて下敷きにされそうになり、陳と蔡の国では暴徒に囲まれました。
わたくしこれという落ち度もないと思いますのに、
こんな四回の排斥にあったのはどうしたわけでしょうか。
老子はあわれんだ様子で、こういった。
ひどいものだね、あなたの悟りの悪さは・・・略
ひきしめて、自分の身を修め 慎んで生まれつきの真実なものを守り、
世俗のものは人々に返してしまうなら 何物にも乱されることがなくなるだろう。
今我が身に道を修めることをしないで、他人にそれを求めているのは、
なんと外界にとらわれたことであろうか。
孔子は慎み深いようすになって、
「どうかお教え願いたいのですが、真実というのはどういうことでしょうか」
老子は答える。
「真実というのは、純粋誠実の極みだよ、純粋でなく 誠実でなければ 他人は感動することはない。
だから無理にでも泣き叫ぶ者がいて辛そうにしていても その悲哀は誰にも伝わることはない。
無理に怒る者は厳しい姿を演じても威力はなく、
無理に親しくしようと近づく者はにこにこしていたとしても和やかさは感じられない。
真実の泣き叫びは、声をたてなくても悲しみが伝わり、
真実の怒りは厳しくなくとも威力があり、真実の親しみはにこにこしなくとも和やかなものだ。
真実が内にたくわえられていると、微妙な心のはたらきが外にあらわれてくる。
真実が貴重なのは そのためなのだ~略~
真実というのは天から受けたものであって自然なあり方を模範として真実を尊重し、
世俗のことにとらわれたりはしない。
愚か者は、その反対である。
天のあり方を模範とすることができないで、
人としてのはたらきに意識を使いすぎ、真実を尊重すべきだということがわからないで、
世俗の流れに従って同化されていく。
だから真実が足りなくなっていくのだ。
残念なことだ、あなたは若い時から人為の「礼」の世界に落ちこんで
今頃になってやっと偉大な道について知ったとは・・
~略~
わしは、一緒に進める相手とは 手を取って道の究極までゆきつけるが、
一緒に進むだけの力のない相手では、その道を理解させることはできない。
そんな手あいとは一緒にならないようにするのが身の安全だとね。
あなた、がんばってくれたまえ、わしはあなたから離れる、わしはあなたから離れるよ・・
何かしら現代日本社会を見ていると、私が何故にこうした「中国武術文化」を中国大陸とを往来して学び修養し続けていることが、
自分自身で納得できることがあります。
今年ももう少しですね、皆様もどうぞご健康で楽しくお過ごし下さい。
(※以下は以前記述した武術文化教養について綴った記述です)