昨日12月11日付 日本経済新聞のコラムの中に、今ある現代日本社会の問題点を非常にいい内容で綴っている文章があったので紹介します。
大機小機「対話と議論が社会を変える」より
名門企業で不祥事が相次ぐのは何故か。
どの企業もリスクマネジメント体制を確立し、コンプライアンスを実施しているはずだ。その根本には、考えることを放棄し、結果だけを求める無責任主義と思考停止の連鎖の蔓延があるのではないか。
社会の価値観が変化し、「正解のない問い」があふれている。
その一方でテクノロジーが進化し、課題解決の手法が高度化・効率化すると人は人目でわかりやすい正解を求める。
例えばeラーニングの普及で会社員に対する研修も容易になったが、むしろマニュアル通りの対応でしかできない人材を作っている。
明確な正解が見出せない時代に画一的な対応を行うことは、社会環境変化から取り残され成長の阻害要因にもなりかねない。
日本では戦後、自ら考えることよりも「正解」を覚えることに注力してきた。
組織の統治では、幹部さえも都合が悪くなると組織論や形式論を持ち出して責任の伴う判断を回避しようとする。さらに近年のコンプライアンス強化の流れは単純化したルールの徹底に終始し思考停止を加速させている。
「正解のない問い」に対応するためには、白でも黒でもない真ん中的思考力をつけることだ。
~中略~
やみくもな会社批判でも言いなりになることでもなく、持続的な運営を続けるにはどうすべきか、を考えることであり、そこに唯一の正解はない。
~中略~
一方の価値観を押し付けるやり方は一人よがりの結果しかもたらさず、弊害でしかない。
リーダーは「正解らしきもの」を押し付けるのではなく、対話と議論を通して既成概念と新しい価値観との接点を探ることが重要になる。
~ ~ ~ ~
ここには非常にいい指摘が為されていて、私の仕事のフィットネス業界でも、太極拳を含む「武術界」でも、全く同様に感じていて、これはむしろ一部分的な問題ではなく、同じような人間たちが溢れかえっている大きな問題になっていることだと認識しました。
先ず「考えることを放棄し、結果だけを求める無責任主義と思考停止の連鎖の蔓延があるのではないか」
これはまさしく、その通りであり、ひと言でいえば「不適格な人間」が運営での責任者を行う結果は必ず、こういう構造が出来上がると感じています。
つまりは、権利を簒奪した人間にありがちなのは、自分がハシゴで2階へ上がって、自分が上がったらハシゴを外す作業をして、自分だけは常に安全な場所を確保していて、
後は仕事や作業においては、常に自分に都合よく動く部下を選んで使っては捨てて、使っては捨ててを繰り返していくうちに、こうした構造になっていくことが考えられます。
当然に部下は、自分で何をしているかを認識できず、与えられたことを「こなす」だけのテクニック:技巧的になり、いつしかそれが間接的にまた間接的になるうちに、全体像が見えなくなり、
結果的には、「その場」「その場」での場当たり的な仕事:作業感覚になり「全体」が見えることはなく、
「こなす仕事」だけをすれば「いい仕事をしている」と勘違いを起こすようになります。
そして当然に本質的に全体像が見えていない分、効率よく成果が上がることは考えられず、そして「こなす仕事」での「質が低い」とか「効率が悪い」「結果が悪い」指摘をされると、それが自分のメリットに関連することであれば必ず保身的立場が働くことで逆上し、
自らを正当化し、自分達の組織を守ろうとし「一人よがりの結果しかもたらさず、弊害でしかない」に繋がっていきます。
「日本では戦後、自ら考えることよりも「正解」を覚えることに注力してきた」
「”正解のない問い”への対応」
この2つはもう現代日本社会での「精神的な生活習慣病」になっていると思います。
「正解を覚えること」は「そういうものだ」と思い込まされれば、気付かずに何でも「そういうものだ」と行ってしまうようになり、
「正解のない問い」は考えを起こせないところから、「単語記憶力」のテストだけで上がって来「た時代遅れ型エリート」や「教養を身につけていない人」でも、「”正解のない問い”への対応」をすることを避け続ければ、思考停止状態になってしまうところは同じです。
世の中の洗脳が蔓延るにも、精神的不安定になってしまうのも、この2つの問題意識が薄く、避けてきた人達は当然に「思考停止」して、それは連鎖反応を起こします。
そして、その世界観では後に「やみくもな会社批判」をしてムラ組織から干されるか、「言いなりになること」であり、持続的な運営だけをを続けるだけでどうすべきか、を考えることはなくなり、
そこを「唯一の正解」だと思い込む人間を量産することになります。
(※彼等は、マスメディアの右向け右、左向け左、作られる流行などの情報操作に載せられる人達、あるいは誤った民主主義に引っかかる)
そうして、一方の価値観を押し付けるやり方を行い、自分達は「いい仕事をしていて偉い」と思い込むようになり、良い結果が出なくとも、自分達自身で「自己洗脳」と「専横」を図る方に意識が向うようです・・・
ふと、こうして今までの自分たちの武術活動を振り返れば「何故にこうしたことをやってきた」か、という答えが自ずから浮かび上がって来ました。
すべて私は「無責任主義と思考停止の連鎖の蔓延」を厭い、
「責任はすべて自己の結果責任で引き受け」「思考に思考を働かせて」いち早い行動、反省そしてまたアクションの連続、
こうした地道な仕事をこなすことで、2001年から14年かかりましたが今ようやく、将来に向けた力強い展望が見えてきました。
武術界にも大きな「同じ問題」がありますが、それは近い将来に「時間」が、必ず解決してくれる結果になるはずなので、
我々は次のステップへ向けて焦点を合わせて確実な努力を重ねていくことがチャンスを呼び込めることになると思います。
具体的な例としては2年後「2017年」に「2024年夏季五輪」の開催地決定と開催項目の中で、また「武術:WUSHU」をオリンピック正式種目へ再申請する計画がもう始まっています。
「2020年東京五輪」のことも、その結果次第でエキシビジョン競技などの関連で、もう一度宣伝活動の一環として注視される可能性があります。
今年の東京五輪追加項目のことも含めて、2024年の正式項目で日本オリンピック委員会への働きかけへの期待ではなく、
未だ中国のみが発祥の種目を持たず次回の国際オリンピック委員会の会議の投票の場で「武術:WUSHU」が票を多く集めて決定出来た後には、
旧来型組織の行うコンプライアンスの問題などは圧倒的多数の眼からチェックされることになるので、勝手なことは行うことができなくなり、我々にとっては大きなチャンスになると思います。
2020年 東京五輪追加項目 武術は落選
「対話と議論が社会を変える」というテーマの通り「対話と議論をしない組織」は社会を変えられず衰退していく、という全体的指摘でのこともあり、もう少し自然淘汰での流れの働きを待つことも伝統的日本での歴史なのかも知れません・・・
大機小機「対話と議論が社会を変える」より
名門企業で不祥事が相次ぐのは何故か。
どの企業もリスクマネジメント体制を確立し、コンプライアンスを実施しているはずだ。その根本には、考えることを放棄し、結果だけを求める無責任主義と思考停止の連鎖の蔓延があるのではないか。
社会の価値観が変化し、「正解のない問い」があふれている。
その一方でテクノロジーが進化し、課題解決の手法が高度化・効率化すると人は人目でわかりやすい正解を求める。
例えばeラーニングの普及で会社員に対する研修も容易になったが、むしろマニュアル通りの対応でしかできない人材を作っている。
明確な正解が見出せない時代に画一的な対応を行うことは、社会環境変化から取り残され成長の阻害要因にもなりかねない。
日本では戦後、自ら考えることよりも「正解」を覚えることに注力してきた。
組織の統治では、幹部さえも都合が悪くなると組織論や形式論を持ち出して責任の伴う判断を回避しようとする。さらに近年のコンプライアンス強化の流れは単純化したルールの徹底に終始し思考停止を加速させている。
「正解のない問い」に対応するためには、白でも黒でもない真ん中的思考力をつけることだ。
~中略~
やみくもな会社批判でも言いなりになることでもなく、持続的な運営を続けるにはどうすべきか、を考えることであり、そこに唯一の正解はない。
~中略~
一方の価値観を押し付けるやり方は一人よがりの結果しかもたらさず、弊害でしかない。
リーダーは「正解らしきもの」を押し付けるのではなく、対話と議論を通して既成概念と新しい価値観との接点を探ることが重要になる。
~ ~ ~ ~
ここには非常にいい指摘が為されていて、私の仕事のフィットネス業界でも、太極拳を含む「武術界」でも、全く同様に感じていて、これはむしろ一部分的な問題ではなく、同じような人間たちが溢れかえっている大きな問題になっていることだと認識しました。
先ず「考えることを放棄し、結果だけを求める無責任主義と思考停止の連鎖の蔓延があるのではないか」
これはまさしく、その通りであり、ひと言でいえば「不適格な人間」が運営での責任者を行う結果は必ず、こういう構造が出来上がると感じています。
つまりは、権利を簒奪した人間にありがちなのは、自分がハシゴで2階へ上がって、自分が上がったらハシゴを外す作業をして、自分だけは常に安全な場所を確保していて、
後は仕事や作業においては、常に自分に都合よく動く部下を選んで使っては捨てて、使っては捨ててを繰り返していくうちに、こうした構造になっていくことが考えられます。
当然に部下は、自分で何をしているかを認識できず、与えられたことを「こなす」だけのテクニック:技巧的になり、いつしかそれが間接的にまた間接的になるうちに、全体像が見えなくなり、
結果的には、「その場」「その場」での場当たり的な仕事:作業感覚になり「全体」が見えることはなく、
「こなす仕事」だけをすれば「いい仕事をしている」と勘違いを起こすようになります。
そして当然に本質的に全体像が見えていない分、効率よく成果が上がることは考えられず、そして「こなす仕事」での「質が低い」とか「効率が悪い」「結果が悪い」指摘をされると、それが自分のメリットに関連することであれば必ず保身的立場が働くことで逆上し、
自らを正当化し、自分達の組織を守ろうとし「一人よがりの結果しかもたらさず、弊害でしかない」に繋がっていきます。
「日本では戦後、自ら考えることよりも「正解」を覚えることに注力してきた」
「”正解のない問い”への対応」
この2つはもう現代日本社会での「精神的な生活習慣病」になっていると思います。
「正解を覚えること」は「そういうものだ」と思い込まされれば、気付かずに何でも「そういうものだ」と行ってしまうようになり、
「正解のない問い」は考えを起こせないところから、「単語記憶力」のテストだけで上がって来「た時代遅れ型エリート」や「教養を身につけていない人」でも、「”正解のない問い”への対応」をすることを避け続ければ、思考停止状態になってしまうところは同じです。
世の中の洗脳が蔓延るにも、精神的不安定になってしまうのも、この2つの問題意識が薄く、避けてきた人達は当然に「思考停止」して、それは連鎖反応を起こします。
そして、その世界観では後に「やみくもな会社批判」をしてムラ組織から干されるか、「言いなりになること」であり、持続的な運営だけをを続けるだけでどうすべきか、を考えることはなくなり、
そこを「唯一の正解」だと思い込む人間を量産することになります。
(※彼等は、マスメディアの右向け右、左向け左、作られる流行などの情報操作に載せられる人達、あるいは誤った民主主義に引っかかる)
そうして、一方の価値観を押し付けるやり方を行い、自分達は「いい仕事をしていて偉い」と思い込むようになり、良い結果が出なくとも、自分達自身で「自己洗脳」と「専横」を図る方に意識が向うようです・・・
ふと、こうして今までの自分たちの武術活動を振り返れば「何故にこうしたことをやってきた」か、という答えが自ずから浮かび上がって来ました。
すべて私は「無責任主義と思考停止の連鎖の蔓延」を厭い、
「責任はすべて自己の結果責任で引き受け」「思考に思考を働かせて」いち早い行動、反省そしてまたアクションの連続、
こうした地道な仕事をこなすことで、2001年から14年かかりましたが今ようやく、将来に向けた力強い展望が見えてきました。
武術界にも大きな「同じ問題」がありますが、それは近い将来に「時間」が、必ず解決してくれる結果になるはずなので、
我々は次のステップへ向けて焦点を合わせて確実な努力を重ねていくことがチャンスを呼び込めることになると思います。
具体的な例としては2年後「2017年」に「2024年夏季五輪」の開催地決定と開催項目の中で、また「武術:WUSHU」をオリンピック正式種目へ再申請する計画がもう始まっています。
「2020年東京五輪」のことも、その結果次第でエキシビジョン競技などの関連で、もう一度宣伝活動の一環として注視される可能性があります。
今年の東京五輪追加項目のことも含めて、2024年の正式項目で日本オリンピック委員会への働きかけへの期待ではなく、
未だ中国のみが発祥の種目を持たず次回の国際オリンピック委員会の会議の投票の場で「武術:WUSHU」が票を多く集めて決定出来た後には、
旧来型組織の行うコンプライアンスの問題などは圧倒的多数の眼からチェックされることになるので、勝手なことは行うことができなくなり、我々にとっては大きなチャンスになると思います。
2020年 東京五輪追加項目 武術は落選
「対話と議論が社会を変える」というテーマの通り「対話と議論をしない組織」は社会を変えられず衰退していく、という全体的指摘でのこともあり、もう少し自然淘汰での流れの働きを待つことも伝統的日本での歴史なのかも知れません・・・