武術界で生きるようになってから、来月の秋分で満30年めになります。
単独、横浜武術院を立ち上げてから10年。
今迄にいろいろありました。
喜怒哀楽、喜怒哀楽、そして喜怒哀楽です。
この2年ほどの間でようやく喜と楽が多くなってきた感覚を思います。
ありがとうございます!
「SPORTS:スポーツ」としての武術競技のすべてを2000年をもって一度辞めました。
フィットネスの仕事に専念をしながら武術専門研究院としての普及活動をしていました。
2006年に本場での中国武術競技ルールが高難度競技と伝統武術競技と分かれて変更されて2002年より上海で開催される国際大会から日本からの代表選手を出してくれないか、という招請もあり、当時の学生たちを出していました。
2006年の大会前には様々な要因があってチームの士気が下がっている時期がありました。
そこで伝統競技部門の最難関の伝統拳術三類にエントリーしました。
項目は酔拳です。
今迄にはエキシビジョンではよく行っていましたが、競技会は初めてです。
(地躺拳や蟷螂拳では以前、出場したことはありました)
この年は団長を務めて、監督を務めて、そして選手としてエントリーした今迄に類を見ない大会でした。
競技会前の審判会議(国際大会では大会に関係での審判員全員、各チーム監督、選手が一同に会し、競技会前にルール説明と大会における採点される重要な部分の確認と、議論をかなり白熱して行います)
その会議では、団長で呼ばれて「ハイ」と答え、領隊(監督)と呼ばれて「ハイ」と答えて、チーム選手代表と呼ばれて「ハイ」と答えて、
「何だ、全部お前一人じゃないか!」と笑われました。
「日本の武術界ではとにかく人手不足なもので・・」と答えました。
会議では、その各国内での普及状況や感想や問題点などを誰でもタブーなく自由に発言ができます。そのことで参加国代表が共通の問題解決手段を話しあったり、よりレベルアップできた方法を語り合ったりできるので非常に有意義な会議です。
そして時には中国武術協会主席や副主席から、過去から現在、そして今後の競技会での内容の展望などを教唆してくれます。
大会期間はとにかく大忙しでした。
自分の出番の2時間前になって気持ちを切り替えました。
できるだけ一人になり集中をしました。
本番前、意識していたのはアメリカと中国上海代表です。
アメリカ代表(元々は上海出身→アメリカ移住してアメリカ代表)は蟷螂拳でした、思ったより点が伸びず「8.9」でした。
そして上海代表の若手の地躺拳、最後の鯉魚打廷をしてふらつきました。得点は「9.0」
自分の出番です、伝統拳の国際大会は「演武内容」を事前に申告しなくてもいいので内容は自分任せです。
私が行うのは「酔拳」元々表現意識が難しく、その評価でも意見がやたらと別れて点が伸びない項目です。
でも私には失うものはない。
直前に上海代表が鯉魚打廷でふらつきました。大体同じ部分で私も構成していました。
(変更だ、打廷で自分がよろければ負ける、工夫だ。最後撲虎でやろう・・NOミスなら自分にチャンスがあるだろう・・)
今でも憶えていますが、演武はとても長い時間に思いました。
自分の感覚では「とにかく、NOミスでできた。点は何点でも出すがいい」
正面に座っていた、神拳大龍と称される蔡龍雲先生、その横には十大武術家の上海体育学院教授、王培錕先生と何回か目が合いました。
最終得点は「9.1」
まだ微妙だ・・
そしてロシアが出てきました。「8.85」
もう一人も「8.85」
ラストが上海代表の蟷螂拳。
「9.08」
「・・・・」
「ひょっとして俺かな!?」
「嫌、まだ解からない。よくあるのはさっき出した点はミスがあった。正しくはこれ・・」
中国での経験が長いと、いつも疑心暗鬼になるのが普通です。
(でも、日本ではそれはないので、感覚を直すのに 今でも一苦労です)
大会主催者が観客席に来て人探しをしてきました。
「横浜武術院 成澤正治!!」
「私です!」
「あなたが先程の項目では第一位です、表彰台に来てください」
「本当!? いや、まだわからない。中国では直前で いや違ったごめんなさい、これがあるからな・・」
金メダルを首に下げてもらってから、ようやく信じられました。
かなりの勢いで嬉しかったのですが、まだ団長と監督の仕事をして参加出場した皆さんがそれぞれに帰宅して、
ツアーを終えて次の日以降に無事でよかった、と確認しなければ安堵ができません。
帰国後次週以降に皆さんに会っていろいろ話ました。
出場者の中では、まったく不本意だった人もいれば、良かった人もいます。
双方に「またがんばりましょうね!」と声をかけてまだこれからの発展や「やる気」を高めるのも大事な役目です。
そんなこんなで、翌年は2007年は8月の夏は杭州での中国武術段位考評、そして国際武術教練認定試験。
中国武術段位考評
秋から伝統華侘五禽戯の研修をスタート。
五禽戯
2008年は上海国際武術博覧会で団長と監督、8月下旬に横浜武術院中国武術・気功演武交流会を復活。
演武交流会
2009年は2回に分けて訪中し伝統華侘五禽戯の全動作学習、習得に全身全霊を注ぎました。
そしてよりグレードアップした演武交流会をやりました。
昨年は8月に最後の国際健康気功展示会に、大会主催者の系財林さんと虞定海先生からの招請で健身気功五禽戯で日本代表として出場しました。
中国武術国際大会
とにかく8月の香港は暑すぎて、忙しかったのと街中の食堂での海老ワンタン麺がとにかく美味しくて四星ホテルの食事より屋台でばかり食事を楽しんでいました。
中国武術の世界に入って、武術名家と呼ばれた皆様に可愛がられて中国人のように、ずっと生きていました。
日本では「中国武術」はあまり好かれないようなので、遠ざけられていました。
中国の先生方はそんな私を可愛がってくれました。面白いと思ったのでしょう。
先生方とは家族同様に扱ってくださいました。
わが愛しい祖国日本では
東西冷戦が続き、中国とは政治経済的には敵国 犬猿の仲・・
盲目的なアメリカブーム、今や韓国ブーム。
私は、とにかく 今迄に 多くの範囲で心身共に忙しすぎた・・
今年の夏。
のんびりただ普通の当たり前の「日本の夏」をゆっくり毎日を楽しんでいます。
蝉の鳴き声、夏祭り。
風鈴、西瓜、入道雲。
鰻、そうめん、とにかく日本の夏のすべての風物詩を楽しんでいます。
思うに、こんなに落ち着いて「日本の夏」を満喫するのは、何年ぶりなのだろうか・・
思い出すと「小学6年生」ぐらい、なのかも・・
しかし、その中でもさりげなく思いは10月2日の演武交流会!!
単独、横浜武術院を立ち上げてから10年。
今迄にいろいろありました。
喜怒哀楽、喜怒哀楽、そして喜怒哀楽です。
この2年ほどの間でようやく喜と楽が多くなってきた感覚を思います。
ありがとうございます!
「SPORTS:スポーツ」としての武術競技のすべてを2000年をもって一度辞めました。
フィットネスの仕事に専念をしながら武術専門研究院としての普及活動をしていました。
2006年に本場での中国武術競技ルールが高難度競技と伝統武術競技と分かれて変更されて2002年より上海で開催される国際大会から日本からの代表選手を出してくれないか、という招請もあり、当時の学生たちを出していました。
2006年の大会前には様々な要因があってチームの士気が下がっている時期がありました。
そこで伝統競技部門の最難関の伝統拳術三類にエントリーしました。
項目は酔拳です。
今迄にはエキシビジョンではよく行っていましたが、競技会は初めてです。
(地躺拳や蟷螂拳では以前、出場したことはありました)
この年は団長を務めて、監督を務めて、そして選手としてエントリーした今迄に類を見ない大会でした。
競技会前の審判会議(国際大会では大会に関係での審判員全員、各チーム監督、選手が一同に会し、競技会前にルール説明と大会における採点される重要な部分の確認と、議論をかなり白熱して行います)
その会議では、団長で呼ばれて「ハイ」と答え、領隊(監督)と呼ばれて「ハイ」と答えて、チーム選手代表と呼ばれて「ハイ」と答えて、
「何だ、全部お前一人じゃないか!」と笑われました。
「日本の武術界ではとにかく人手不足なもので・・」と答えました。
会議では、その各国内での普及状況や感想や問題点などを誰でもタブーなく自由に発言ができます。そのことで参加国代表が共通の問題解決手段を話しあったり、よりレベルアップできた方法を語り合ったりできるので非常に有意義な会議です。
そして時には中国武術協会主席や副主席から、過去から現在、そして今後の競技会での内容の展望などを教唆してくれます。
大会期間はとにかく大忙しでした。
自分の出番の2時間前になって気持ちを切り替えました。
できるだけ一人になり集中をしました。
本番前、意識していたのはアメリカと中国上海代表です。
アメリカ代表(元々は上海出身→アメリカ移住してアメリカ代表)は蟷螂拳でした、思ったより点が伸びず「8.9」でした。
そして上海代表の若手の地躺拳、最後の鯉魚打廷をしてふらつきました。得点は「9.0」
自分の出番です、伝統拳の国際大会は「演武内容」を事前に申告しなくてもいいので内容は自分任せです。
私が行うのは「酔拳」元々表現意識が難しく、その評価でも意見がやたらと別れて点が伸びない項目です。
でも私には失うものはない。
直前に上海代表が鯉魚打廷でふらつきました。大体同じ部分で私も構成していました。
(変更だ、打廷で自分がよろければ負ける、工夫だ。最後撲虎でやろう・・NOミスなら自分にチャンスがあるだろう・・)
今でも憶えていますが、演武はとても長い時間に思いました。
自分の感覚では「とにかく、NOミスでできた。点は何点でも出すがいい」
正面に座っていた、神拳大龍と称される蔡龍雲先生、その横には十大武術家の上海体育学院教授、王培錕先生と何回か目が合いました。
最終得点は「9.1」
まだ微妙だ・・
そしてロシアが出てきました。「8.85」
もう一人も「8.85」
ラストが上海代表の蟷螂拳。
「9.08」
「・・・・」
「ひょっとして俺かな!?」
「嫌、まだ解からない。よくあるのはさっき出した点はミスがあった。正しくはこれ・・」
中国での経験が長いと、いつも疑心暗鬼になるのが普通です。
(でも、日本ではそれはないので、感覚を直すのに 今でも一苦労です)
大会主催者が観客席に来て人探しをしてきました。
「横浜武術院 成澤正治!!」
「私です!」
「あなたが先程の項目では第一位です、表彰台に来てください」
「本当!? いや、まだわからない。中国では直前で いや違ったごめんなさい、これがあるからな・・」
金メダルを首に下げてもらってから、ようやく信じられました。
かなりの勢いで嬉しかったのですが、まだ団長と監督の仕事をして参加出場した皆さんがそれぞれに帰宅して、
ツアーを終えて次の日以降に無事でよかった、と確認しなければ安堵ができません。
帰国後次週以降に皆さんに会っていろいろ話ました。
出場者の中では、まったく不本意だった人もいれば、良かった人もいます。
双方に「またがんばりましょうね!」と声をかけてまだこれからの発展や「やる気」を高めるのも大事な役目です。
そんなこんなで、翌年は2007年は8月の夏は杭州での中国武術段位考評、そして国際武術教練認定試験。
中国武術段位考評
秋から伝統華侘五禽戯の研修をスタート。
五禽戯
2008年は上海国際武術博覧会で団長と監督、8月下旬に横浜武術院中国武術・気功演武交流会を復活。
演武交流会
2009年は2回に分けて訪中し伝統華侘五禽戯の全動作学習、習得に全身全霊を注ぎました。
そしてよりグレードアップした演武交流会をやりました。
昨年は8月に最後の国際健康気功展示会に、大会主催者の系財林さんと虞定海先生からの招請で健身気功五禽戯で日本代表として出場しました。
中国武術国際大会
とにかく8月の香港は暑すぎて、忙しかったのと街中の食堂での海老ワンタン麺がとにかく美味しくて四星ホテルの食事より屋台でばかり食事を楽しんでいました。
中国武術の世界に入って、武術名家と呼ばれた皆様に可愛がられて中国人のように、ずっと生きていました。
日本では「中国武術」はあまり好かれないようなので、遠ざけられていました。
中国の先生方はそんな私を可愛がってくれました。面白いと思ったのでしょう。
先生方とは家族同様に扱ってくださいました。
わが愛しい祖国日本では
東西冷戦が続き、中国とは政治経済的には敵国 犬猿の仲・・
盲目的なアメリカブーム、今や韓国ブーム。
私は、とにかく 今迄に 多くの範囲で心身共に忙しすぎた・・
今年の夏。
のんびりただ普通の当たり前の「日本の夏」をゆっくり毎日を楽しんでいます。
蝉の鳴き声、夏祭り。
風鈴、西瓜、入道雲。
鰻、そうめん、とにかく日本の夏のすべての風物詩を楽しんでいます。
思うに、こんなに落ち着いて「日本の夏」を満喫するのは、何年ぶりなのだろうか・・
思い出すと「小学6年生」ぐらい、なのかも・・
しかし、その中でもさりげなく思いは10月2日の演武交流会!!