きのうは久しぶりの友だちと代々木八幡宮へ。
当初目指したのは明治神宮だったのですが
想像していたより人出が多かったので(手水舎から大行列~💦)
急遽行き先を変更して、雪に覆われた神宮の森を歩いて代々木へ。
10年近く前に
ソマティック(ボディ)サイコセラピーのワークショップで初めて知り合った彼女は
セラピーやワークショップを受けたり、自己の癒しについてさまざまな形で取り組み、学んできた人なので
多くを語らなくても、 「そうそう!」 「だよね!」 と分かりあえて、腑に落ちることが多い。
ずっと訪問看護の仕事をしているので、
コロナの感染にはものすごく注意をしていて
この約2年間、
共通していたのは、コロナで半ば強制的に人と会うことが出来なくなって
それまでいかに
外に出ていき、人と過ごすことで、気を紛らわして
自分と向き合うことを後回しにしてきていたか…
それが家にいる時間が増えたことで
おのずと自分の方に視点を向けることになって
ようやく、探し求めていたものに出会えた♡
外側に探していたものは、すべて内側にあることがストンとハラ落ちした、という…
お互いになんとなく似たような経緯で自分を見つめなおすことになり、
それまでは人(セラピストさんやカウンセラーさん含む)の存在を借りても見えてこなかった心理的な盲点(スコトーマ)に目を向け、
自分で自分をさらに知って、許し・許されていくという体験をしていたのが面白かった!
(既視感アリ…(笑)
だけど何度でも気づきたい、何度も腑に落としたい。気づきが無くなったら成長も終わりだから)
彼女と今より頻繁に会っていたころに書いたブログを貼ってみます。
(なつかしい&愛おしいー)
“生きる”っていうことが、誰でも普通にやっていることが
なんでわたしにはこんなに苦しいんだろうと、しょっちゅう感じていたし、
こんな自分ではだめだ、生きる価値なんてない、って子供のころからずーっとどこかで思っていたんですよね。
友だちと別れてからの帰り道
あきらめずに自分を信じて歩み続けてよかったね、最初からなにも欠けてなんかいなかったよ、すべてずっとここにあったんだよね、って
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若い頃
攻撃性の強い自分の性格のせいで
人を不用意に傷つけてしまうのが悲しかった。
やさしくなんて、全然なれなかった。
手負いの野生動物のように
自分で自分の傷をなめ、身を縮めて、丸くなって眠ることしか出来なかった。
朝になったら、少しでも傷が癒えていることを夢見ながら。
そんな風に人を攻撃してしまうのは
自分を守ることに精一杯だったのだから
仕方ないことだったのだと
(防衛っていうやつね)
人を傷つけることで
自分自身が深く傷つくことに、結局は、いつもなった。
もっと小さいころ、いつも愛に餓えていた。
なにかが足りなくて
わたしが望んでいるようには父も母も私を愛してはくれなかったのは
彼らがわたしを愛していなかったからではなく
彼らだって深く深く愛され、受け止められたという
身体の記憶も、心の記憶も、感情の記憶もないからで
いや、確かにあったんだけど
きっとわたしも、父も、母も、
魂の記憶としての
なにかもっともっと大きな、深い、言葉では言い表せない
“愛みたいな何か”を知っていたのだろうけれど、
そしてそのことをときどき何かの拍子に思い出すのだけど
あまりにも実体がなさ過ぎて、日々のあれやこれやの中に紛れていってしまったんだろう。
肉体をまとってから、その魂の記憶に、つながる方法も一緒に忘れてしまったように。
だからわたしは
大人になってから
そのMissing pieceを探す冒険に出ることにしたのだった。
コンティニュアムは、
その探し物を探すための、
この世の中にいくつもあるだろうやり方の中のひとつの方法で
わたしがそれを好んでいるという、ただそれだけのことなんだけど
それに出会えたことの奇跡は
果てしなく大きな宝なんだとも感じている。
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