夏の日、わたしは
時間の止まったような青山墓地と、
その向こうには未来都市のような六本木のビル群と、真っ青な空と白い雲が見える部屋にいて
死の床に横たわる母の腕をさすり続けていた。
もしかしたら、
わたしがさすっていたのは死の床の母の腕ではなくて
赤ん坊の頃、横で添い寝している母の、
脈打つ温かな腕だったのかもしれない。
何度も何度も繰り返しさすっているうちに、
周囲の音は消え
時間は止まり
あちら側の世界とこちらの世界のヴェールは、消えた。
単調な動作を繰り返し
温かくて柔らかいその腕の感触を味わっていると
胸が温かくなり、弛む。
涙がどんどんわいてきて
畳にポタポタと落ちた。
悲しい、とも違う
嬉しい、とも違う
胸の辺りでさざ波が泡立つような感覚があり
それを聴くように感じている。
ストーリーと結び付けないまま。
悲しみを、苦しみを、痛みを、身体のどこかに留めておかず、
流れたいがままにしておく、
出来るだけ思考に入り込まないようにし、感覚として感じることに留まる。
身体に残された記憶は、
ミルフィーユみたいにいくつもの層になって
色んなところに、忘れていた記憶が
そっと静かに置かれている。
なんらかの刺激を受けなければ
それらは眠ったように静かだ。
息をひそめて時間と空間を凍らせ、そこにある。
暑い暑い夏の日に、
穏やかな刺激と、中立で愛あるサポートを受けて、
眠っていた身体の記憶が、揺り起こされた。
母が死んだのは20年以上も前だというのに
鮮明に思い出される記憶。
身体感覚を含めた(または入り口にした)サイコセラピーやワークは、
本人がどこまで階段を降りるのか、
どこまで扉を開くのか、の内的な準備次第で
起きることは色々、と言う風に理解している。
わたしは身体を入り口にしたアプローチが好みだし、
思考をなるべく挟まず、感覚を通して最短距離で起こるべきことが起こるのが、心にも身体にも優しいと感じる。
無理強いはしない
自分を信じ
起きることを信じ
そこにいる人を信じ
しがみつきたい恐怖を感じ
身体にわき起こるなにかを感じ
それらすべての中にいて
それらすべてを裁かず
それらすべてをあるがままに認める。
母は今もわたしの中に生きている。
☆次回のコンティニュアム・ムーヴメントワークショップは
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