前橋でのコンティニュアムWS終了して、
今日は次のWSの準備と、溜めてしまったメールの返信以外は何もしない日と決め、
買ってきた利休まんじゅうとお茶でまったり。
駅のおみやげ屋さんなのに
保存料や添加物の入っていないお菓子が多くて嬉しさのあまり買ってしまった、ハズレなしの、美味しなつかしい味。
群馬は父が生まれ育った土地で、
初めてちょっと遠くまで呼んでいただいてWSが出来ることになったのも、
土地のエネルギーに共振するものがあったからか、
父やそのご先祖さまたちが呼びよせてくれたのか、などと思いを巡らすと
『ご縁』とか、『結び』とか、そんなものの影響の外では、人は生きていくことってないんだなぁ、と思う。
もし父が肉体を持ってまだ生きていたとしても、
わたしが伝えている事を理解する事は、おそらくなかっただろうというのも、また面白い。
身体を離れた今は、全面的に応援してくれているんだろうけれど。
コンティニュアムを通して何を感じ、なにを自分のものとしていくかはそれぞれだけれど、
人は身体の感覚と切り離されているとき、自分の外側に答えを求めることになる。
たいていの場合
人は、外側で発される情報や、慣れ親しんだ習慣が実際どこからやって来ているのかに無頓着だ。
習慣だから、やる。
みんながそうしてるから、自分もそうする。
という風に、どこかに自動操縦装置が組み込まれてしまっている。
どこからやって来たのか分からない自動操縦システムの中で生き続けるのは、
ある面楽でもあるし、そこに居続ける選択をすることも、もちろん自由。
そして、そうした外側からの情報が正しいとか間違ってるとか、
私利私欲や悪意に基づいているとか、
愛と善意に満ちているとか、そういうこととは別のところで、それでも
自分の身体の叡智とつながって、
その瞬間の生きたものとして物事をとらえ、選択し、行動していたい。
昔の人たちはみんな自然とそうやって、身体とともに繊細なまま
おおらかに朗らかに、生きていた。それが可能だった。
テレビやインターネットからの情報を自分の中心に据えてしまっている人よりも、
自分の身体と対話できる人が増えたら、そんな世界は今より進化していると言えるよね。
コンティニュアムをすることで(もちろんコンティニュアムだけじゃなくて他にもたくさんのやり方はある)、
身体だけでなく、すべてとつながって、
そんなつながりの中で生きる人たちがもっと増えていったら、元気な地球にもどっていくんだよね。
身体ブラボー☆