身体や、心や、見えない世界のことを、もっと知りたい、見たい、感じたい、と

 

スクールに入ったり、セラピーを受けたり、ワークショップに行ったりし始めた頃。

        
 
 
 
       
ユング派の心理療法の個人セッションを週に2回受け、ここで無意識の領域を扱い、夢について話し、箱庭をこさえ、
 
心理療法士さんとのふたりきりの関係性を安全基地にしながら(擬似母子関係ですね)、
 
ピンときたものには、なんでも参加した。
 
 
 
 
 
グループワークが好きだった。
 
身体からのアプローチが楽しかった。
 
 
 
 
 
 
言葉は、時にわたしには難解すぎたし、
 
自分にとっての本当の言葉と、つながっているのがむずかしかった。
 
 
 
 
からだ
 
ことば
 
わたし
 
 
がバラバラなように感じた。
 
 
 
 
まるで別々の生き物のように、つながりが感じられなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
身体と心のことを扱うグループワークでは、
 
始めてからしばらくのうちは本当によく泣いた。
 
自分の過去の体験として記憶されているものを、なんらかのワークをした後に、
 
グループのみんなに聞いてもらいながら話していると、
 
 
 
 
分断されていた、からだと、ことばが、つながった。
 
 
 
 
 
 
そんな風につながりを感じたままで話しをすることは、時にひどく大変だったけれど、
 
身体のどこかに感情を溜めておく必要がないということは、それまで経験したことのない心地よさでもあった。
 
 
 
 
 
みんなの傷が、グループの中で共有される大切な秘密でもあったし、
 
社会的にどれだけ成功していようが、傷のない人はいないのだ、ということを知るのは驚きで、
 
つねに感じていた疎外感や、自分だけが酷い目にあっているという被害者意識から、少し解放された。
 
 
 
 
 
 
そんな、身体と心を扱う場で、その時の参加者は仲間だったし、大きな家族だった。
 
誰かが体験をシェアしているとき、幾度も共感して泣いた。
 
 
 
 
 
それが、あるときを境に涙は出なくなって、
 
わたしはそんな自分を、ひとの痛みや体験に共感出来なくなってしまった、
 
共感する気持ちを失ってしまった、と少し責めた。
 
 
 
 
 
いつまでも過去のストーリーから抜け出して来ずに、傷と自分を同一化している人に、共感できないと感じ始めていた時期だったということもある。
 
自分がその時には見たくない面を見せられ、その部分を凍らせることでシャットダウンしていたのかもしれない。
 
人でなしになった気分になった。
 
 
 
 
 
 
コンティニュアムをしているとき、
 
悲しみや痛みの記憶とは、意識の上では特につながっていない時にも、涙が流れることがある、
 
悲しみとも、痛みとも、喜びとも、区別のつかない身体の震え。
 
 
 
 
 
 
快楽を感じることを自分に禁じている人の、なんと多いことか。
 
そんな場合には、快楽を感じていることすら痛みや苦しみになるのだ。
 
 
 
 
 
 
今のわたしは
 
過去を体験し、解放している人と、一緒になって号泣するということは、やはりもう無くて(そうしたサイクルがまたやってくるかもしれないけれど)。
 
言葉も特にかけないことが多い。
 
 
しばしば母音だけで、動物みたいに、非言語の共感を伝えたくなる衝動にかられるけれど、しない
 
あぁー、とかうぅー、とか怪しすぎるから(苦笑)
 
 
 
 
…けれどどこかのレベルではかならず共振していて、共振せずにはいられなくて。
 
そんな風に、あなたの存在に共振した身体で同じフィールドにいます。
 
 
 
 
 
 
 
 
5/14  明日、コンティニュアムワークショップやります。残席2名さまとなっています。詳細&お申し込みは⬇︎