赤城丸の悲劇 | マクロビヨーコのブログ

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念願叶って、夫のセミリタイヤを機に2013年6月、夫婦でシンガポールに移住。家族で住んだ5年+4年間の通い婚(シンガポールと日本を行ったり来たり)そしていよいよ、本番スタート!「クッキング」「国際交流」など、その日心に浮かんできた事をブログに綴っています。

夫が海外出張中の昨日の朝。、の~んびりメールチェックを
していたら、1月にトラック(チューク)島の旅でご一緒だった方
から、「将口記者の記事が新聞に出ている」とのご連絡を戴いた。

さっそくポストから取り出して新聞を開いた。
この記事にはいくつもの深い示唆がある。
まず最初に、「戦没者がどこの船に乗船していたのかさえ、
家族には知る由もなかった」という点。

参加者のある方は、父親戦死(ミクロネシア海域で沈没)の
足取りを辿る旅を長年続けておられたが、その詳しいデータの
すべてがアメリカからの情報だという。私も実際、その資料を
見せて貰ったが、インターネットがなければ、絶対に手に入らない
情報ばかりだった。
私には具体的に調査するべき遺族はいないが、この旅を終えた後で、
現地ガイドの末永氏からお聞きした「赤城丸の悲劇」について、
調べてみようと思った。
この船は、1944年2月17日のトラック大空襲のまさに直前、
民間人を800人乗せて横須賀に向けて出航、その直後、
米軍の雨アラレ作戦(American Operation "Hailstone
真珠湾の報復作戦)により沈没。

この時、氏曰く、「あのトラック大空襲での犠牲者の数は
未だに確定されていない。厚生省発表の数字は、
兵隊の犠牲者数だけで、
民間人は含まれていない。沈没船の数すら、
近海に沈んだ約40隻以外はハッキリしていない」とのこと。
実際、このガイドさんのi言われた赤城丸犠牲者800人、、
私がYuチューブで見た「兵士の証言」の500人、そして、アメリカ側の
1300人とその数字はすべて違っていた。

しかし、何よりショックだったのは、沖縄戦同様、
本来助けられるべき民間人が、兵士より先に犠牲になったという点だ。

沈没した赤城丸には、十分な救命ボートや食料、水が無く
幸運にも、助け出された民間人さえ漂流中、同船の士官から
「兵隊はこれからも戦わなくてはいけない。
闘争力のない女子供から、海に飛び込むように」と命令を下され
命を絶った。中には「子供だけでも、兵隊さんと一緒に日本に
連れて帰って欲しい」と必死ですがる母親もいたが、命令に従うしかなかったと
涙ながらに証言する老人の映像をYuチューブで見ることができる。

国民を守るべき兵隊が、自分たちを優先し生き残ろうとした事実は重い。
人道に反した命令にも従わねばならなかった兵士たちに責任
は無いのか。。
この「赤城丸」については、もっと調査されるべきだが、
こんなに多くの民間犠牲者を出しているというのに、
この「兵士の証言」ビデオ以外、詳細な情報がほとんど無いのが実情だ。

ところが、これを「AKAGIMARU]で検索すると
1月24日横須賀出航、25日寄港地の館山を出港しトラックに向かうまでの
この船の履歴、そして最後の日となる2月17日は、
その沈没にいたる過程が。4:30,05:04,07:30.09:55
と時間を追って詳細に状況説明されている。
さらに、この船の船長「クロサキ」が作戦中死亡し、死後、海軍将校に
昇進したことまで記載されているのだ。この資料によると、
512人の乗客と788人の海兵隊員が亡くなった
とされている。

友人のお父様で海軍の少年兵として乗船、4回の沈没を経験された水本保氏
(86)に、この数字の相違をお聞きすると、「アメリカ側の情報が一番正しい」
と言下に答えられた。反撃するすべもなく、無残に沈没していった船が
70-80船、チューク島の周りの暗い海の底に今も人知れず沈んでいる。


さらに、もう1点の示唆は、「小さな島に、4万3千人もの陸海軍の兵士が
送り込まれ、そのうち6千人が餓死した」という現実から見えてくるもの。
補給路が絶たれた上、大空襲で軍の食料庫が焼かれた為、
戦闘どころか、あの小さな島で、生きるためのサバイバル合戦が繰り
広げられた。生き残りの兵士たちは、サツマイモを植える傍ら、食べられる物は、
ヘビ、トカゲ、雑草、何でも口にし、さらには、島民の生命線である
実のなる木(パパイヤ、椰子、バナナ、パンノキ)なども、部隊の名札を
ぶら下げたという。筍の味がする椰子の新芽は、先端の新芽摘みがタブー
(新芽を摘むと実がならない)とされても、生き伸びるために部隊で
食べ尽くした体験談も読んだ。この兵士は、50年後に再びトラック島を尋ね
椰子の実がたくさん実っているのを見て、ホッとしたと書き記していた。


しかし、驚くべきことには、ある衛生兵の証言によると
実際は、焼き尽くされたはずの食料庫に備蓄されていた
食糧があって、彼は餓死が目前に迫った病人には、
死ぬ事を見越した上で最後の食事を与えたとビデオで明言している。
もし、コレを使えば、6000人の餓死はいくらかでも防げたかも
しれないし、迷惑をかけた島民と分かちあう事だってできたはずだ。

読者の皆さんには、是非、、Yuチューブの兵士の証言を通し、
国を守るためと信じて若い命を投げ出し戦った彼らの生き方から、
「戦争とは何か」を学んで欲しい。マスコミの情報をそのまま信じ、
兵隊を万歳で戦地に送り出した銃後の私たち国民にも、
その責任はあると思う。


22歳でこの島に渡り、島民を教育し、酋長と仰がれた
ダン吉は、日本の敗戦を見届けて、この世を去った。
彼の島民への深い愛情と厳しい監視の目無くしては、
軍の統率は到底保たれなかった。
彼のお陰で、飢えと隣り合わせの厳しい占領時代を経ても、
未だに日本を尊敬して貰える国が世界に
存在してよかったひらめき電球ひらめき電球
今、私は今1度、この本「ダン吉になった男」を読み返している。


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。。。。。。。。。。戦争証言テキストより 。。。。。。。。。。

太平洋のほぼ中央に浮かぶトラック諸島。巨大なサンゴ礁に囲まれ大小200余りの島々が点在している。大正8年(1919年)に日本の委任統治領となり、民間人や軍人・軍属など約2万人の人々が暮らすようになっていた。島には町が作られ、病院や小学校、映画館や料亭までが立ち並んでいた。

昭和17年8月、連合軍の本格的な攻勢が始まると、日本軍は連合艦隊の拠点を日本国内から前線に近いトラック諸島に移す。来る決戦に備え、戦艦大和など連合艦隊の主力が集結し空母機動部隊が島を拠点に作戦を開始した。

しかし連合軍の攻勢の前に日本軍は各地で敗北を重ねた。米軍は昭和18年11月、トラック諸島の東にあるギルバート諸島を攻略、翌19年にはマーシャル諸島にも手をのばした。ラバウルの航空隊も度重なる空襲で大きな損害を受けていた。

昭和19年2月10日未明。連合艦隊の主力15隻がトラック諸島を離れた。連合艦隊司令部はトラックを拠点とした決戦は時期を逸したと判断。体勢を立て直すため作戦を変更したのだ。その際、物資や燃料を運ぶ多くの輸送船がなぜか残された。

2月17日早朝、2日間にわたるトラック大空襲が始まった。空襲開始から2時間足らずで航空部隊は壊滅。次に標的にされたのは、ほとんど防備を持たない輸送船だった。この空襲で、日本軍が出した損害は、輸送船31隻、艦艇10隻、航空機279機。死者は2000人以上にのぼった。

連合艦隊の拠点としての機能を失ったものの、トラック諸島が米軍の基地として利用されることを怖れた大本営は、多くの将兵を送り込んでいく。戦況が悪化し補給が絶たれると兵士たちは自給自足を余儀なくされた。トラック諸島では終戦までに、5000人にのぼる将兵や民間人が餓えや病で命を落とした。

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24 January 1944:
Departs Yokosuka. Arrives off Tateyama.
25 January 1944:
Departs Tateyama roadstead for Truk in a troop transport convoy with the submarine tender YASUKUNI MARU and ex-armed merchant cruiser AIKOKU MARU escorted by destroyers MICHISHIO, IKAZUCHI and SHIRATSUYU.
31 January 1944: American Operation “Flintlock” - The Invasion of the Marshall Islands:
Vice Admiral (later Admiral) Marc A. Mitscher’s Task Force 58 lands the 4th Marine Division and the Army's 7th Infantry Division that capture the Kwajalein, Roi-Namur and Majuro atolls.
300 miles NW of Truk. At about 0200, LtCdr (later Captain) Robert E. Dornin's USS TRIGGER (SS-237) attacks the convoy. Dornin slightly damages MICHISHIO, probably hit by a dud torpedo. He then makes a high speed "end-around" on the convoy. At about 0500, in a surface radar attack, Dornin fires five torpedoes at the largest ship. YASUKUNI MARU is hit and sinks about 30 minutes later. AKAGI and AIKOKU MARUs escape.
1 February 1944:
Arrives at Truk.
17-18 February 1944: American Operation "Hailstone" - The Attack on Truk:
Task Force 58's five fleet carriers and four light carriers, supported by six battleships, ten cruisers and 28 destroyers, launch air attacks on airfields, shore installations and ships in the lagoon,
At 0430, AKAGI MARU departs Truk towards Yokosuka in convoy 4215. She carries 617 evacuees and is escorted by the light training cruiser KATORI, destroyers MAIKAZE and NOWAKI and minesweeping trawler SHONAN MARU No. 15. At 0630, the convoy exits Truk's North Pass.
At 0504, Grumman F-6F-3 "Hellcat" fighters and TBF "Avenger" torpedo-bombers from TF 58's carriers USS YORKTOWN (CV-10), INTREPID (CV- 11) and BUNKER HILL (CV-17) and the COWPENS (CVL-25) strafe and torpedo KATORI and damage MAIKAZE. At least one F-6F is shot down. AKAGI MARU is departing behind the NOWAKI, MAIKAZE and KATORI when she is strafed by an F6-F-3 from INTREPID. She is then attacked by five Avengers from BUNKER HILL.
At 0730, AKAGI MARU is attacked by aircraft from YORKTOWN, ESSEX (CV-9) and CABOT (CVL-28). A 500-lb bomb hits her forward hold No. 2 and causes heavy damage. At 0910, during the third attack, AKAGI MARU takes a direct hit by another 500-lb bomb in her starboard hold No. 5. The bomb ignites fuel in nearby tanks and a large fire breaks out.
At 0955, AKAGI MARU takes a hit by a bomb in her port No. 5 hold. Her engines lose power and the ship is unable to navigate. The fire reaches the ammunition magazine and cause several large explosions. At 1030, Abandon Ship is ordered. Most of the survivors are taken aboard KATORI (and later perish with her).
At 1047, a nearby warship scuttles AKAGI MARU at 07-50N, 151-25E in the vicinity of the North Pass. 512 passengers and 788 sailors are lost. Captain Kurosaki is killed in action. He is promoted Rear Admiral, posthumously.
31 March 1944:
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