Beethoven

 12月になるとBeethoven(ベートーヴェン)の交響曲第九番(通称第九)が日本中の都市で演奏されるのが慣例のようになっているが、その中でも“歓喜の歌”は、実は今ほど求められている時期はないと言われる。

その歌詞はゲーテと並ぶドイツ古典主義の代表者であるシラーの An die Freude (歓喜に寄す)が使われている。ただし冒頭のバリトンソロの歌い出しの部分はベートーヴェン自身によって付け加えられたものらしい。

 なぜ今ほど求められるか、というのは“世界がいさかいの中にあっても、神の力で全ての人々はきょうだいになる”と歌われる部分があるからという。

 

 ロシアのウクライナ侵攻も続いているし、今は専らパレスチナのガザ地区におけるイスラム組織ハマスとイスラエルの戦いのニュースばかりのようだが、ガザ地区の極限状態の人道危機は他人ごととは思えない。12月10日現在で死者数が1万8000人、そのうちの4割が18歳未満の子ども。人口の85%190万人の人たちが住む家もなくなり避難民となっているとのこと。人口の90%が食糧危機に陥っていて安心して飲める水もないと。

 

 国連のグテーレス事務総長が国連憲章99条により安保理に人道的停戦を求めても賛成したのが13カ国(日本、フランスなど)棄権1(イギリス)反対1(アメリカ)という結果で、停戦にはなってはいない。アメリカという大国にユダヤ人で経済に多大な影響を持っている人たちが国内に幅をきかせているからだろう。バイデン大統領が来年11月に行われる大統領選挙に、その人たちの票をあてにしているからと言われている。

 

 人間の命は何よりも尊いという神の摂理に反する今だからこそ、第九の“歓喜の歌”が世界に平和が戻った喜びの歌になって欲しいと切に願う。

 

 ベートーヴェンが机の引き出しにいつも遺書を忍ばせていたというエピソードは、耳にしていたが、1827年に亡くなった時に、その遺書に「私の楽譜、財産のすべてを“不滅の恋人”に捧げる」と書いてあったらしい。しかし、その女性の名前は書いてなく、その莫大な遺産をめぐって親戚が騒いだとき、ベートーヴェンの弟子で親友であったアントン・シンドラーという人が色々調べたという。

 

 その不滅の恋人(immortal beloved )、ベートーヴェンが恋焦がれた人は彼の弟の恋人ヨハンナだったのでは?そして彼女の息子カールはベートーヴェンの子どもだったのでは?などという説があるが、1995年に「ベートーヴェンの不滅の恋」という映画が作成され、それを私も見た。

その中で流れていたクロイツェルソナタのメロデイと、劇中でベートーヴェンが声をふりしぼるように語りかけていた“My half , my immortal beloved”という声が忘れられない。(確か、そう呼びかけていたような?)

 Man is mortal. (人間は死を免れない)が、恋はimmortal (不滅)なのだ。

 

 

lookism

最近NHKの時論公論で、lookismについて取り上げていたので、ismのつく英単語をいくつか学んでみようと思った。そもそもismはギリシャ語のismosに由来していて、主義・思想に関する抽象名詞を作る。egoism (利己主義) idealism (理想主義) capitalism(資本主義)communism(共産主義)など。globalism (グローバリズム)などは、そのままもう日本語として使っている。

 

 問題なのは、しばしば差別を表す言葉になる。lookismなどは最近使われるようになったのか?外見至上主義を表す。美人、イケメンなど。「人は見た目が9割」という本がよく売れたらしい。

確かに入社試験や恋愛など、見かけが良いほうが絶対に得かな?とは思う。racism (人種差別)やageism (年齢で判断、差別される特に老人) sexism(性差別・特に女性差別)などは胸に突き刺さる。

 

 たとえば同じismがついてもoptimism (楽観主義)やpessimism(悲観主義)など、差別には関係ない語も、もちろんある。楽観主義者はoptimist 悲観主義者はpessimist 。面白いことわざがある。

Pessimists see the hole while optimists see the bagel. (悲観主義者はベーグル(ドーナツの形をした硬いパン)の穴を見て、楽観主義者はベーグルを見る)

落ち込んだ時、私は頭の中にベーグルを思い浮かべる。絶対に穴なんか見ないぞ!と。

 

 lookism やageismが世界に横行している今の時代に、ちょっと面白い映画を見た。ダイアン・キートンという有名なアメリカ人の女優さんが主役。彼女が71歳の時に主演した「ロンドン、人生始めます」は、夫亡き後、発覚した浮気や借金、上部ばかりのご近所付き合いなど様々なことから逃げて暮らしながら、自分には特技も何もないから自立できないと嘆くエミリー役。ひょんなことから、自然に囲まれた手作りの小屋で暮らすドナルドと知り合い、余計なものを持たずに幸福に暮らしている彼に惹かれていく。このドナルド役が、ブレンダン・グリーソン(ハリーポッターシリーズに出ている老俳優)。はっきり言って、美人でもハンサムでもないと言ってもいい老人二人が主役なのに魅力的な映画だった。リチャードギアが「オータムインニューヨーク」で中年ながら20歳にもならない美女と大恋愛して結ばれる映画を見たときは、二人共超good-looking だから、腹立たしかったが(笑)。ダイアン・キートンも良い年のとり方をしていて十分魅力的だった。生きかたが顔に出るのだと実感!

 

 そして何よりエミリーがドナルドと愛し合ったあとに獲得していったindividualism (個人主義・自立主義)は、もたれ合わないで愛するということの大切さを教えてくれもした素敵な映画だった。

 

 

 

love

  誰でも、とっつきやすい言葉love . fall in love ( with ~人や物) ~にほれる、恋に落ちるWe fell in love on our first date. (僕らは最初のデートで恋に落ちてしまった) また反対はfall out of love ( with~ 人や物) We fell out of love during the first year of our marriage.(ぼくらは結婚一年目にして愛情が冷めてしまった)

 We fell out of love with our new car when it started making strange noises.(新しい車が変な音を出すようになったら私たちの熱は冷めてしまった)とか。Out of sight, out of mind.(去る者は日々に疎し)。Absence makes love grow fonder.

(不在は愛を強める)など。

 

 面白い表現に All is fair in love and war. (恋と戦争は手段を選ばぬ)という諺がある。高校1年生の女子クラスで英語を教えていた時に、この表現が出てきたとき、生徒の一人が「先生、友達の彼氏寝取ったことある?」と質問してきた。実は私は学生時代落語研究会に所属していたことがあり、今は亡き圓楽師匠が一つ上の先輩で“週刊亭さんでい”という芸名をつけてもらったことがある。体の細胞の隅々まで落研魂が宿っていて、何でも受けを狙いたくなる性質である。その時頭に浮かんだのは、当時木村拓哉主演の検事たちのHEROというドラマだった。そこに、よくキムタク達が行くスナックがあって、どんな、ありそうもないものの注文を「○○ある?」と訊かれると、ニコリともしないで、強面のマスターが「あるよ」と平然と応えるシーンが好きだったものだから、思わず「あるよ」と応えそうになって慌てた。ウケ狙いでとんでもないことを言いそうになった。「いや、残念。そこまで魅力があればねえ」で済ました。

 

 最近、そんな質問が出るうちが花だったんだと実感している。一ヶ月以上胃炎で苦しんでいる私。

大好きな男友達四人と飲み会があったとき、いつもはバクバク食べるのに、「今日は胃がもたれてて、ひどい胃炎で」と言いながら、殆どおつまみには手をつけずにビールだけ飲んでいたのに、誰も「大丈夫?」と訊かなかった。メル友の男友だちに「口から胃を取り出してジャブジャブ洗いたいくらい(もた)れている」と書いても「大丈夫?」とは訊かれない。次に紹介する演劇のセリフを聞けば納得だ。

Pity is akin to love. この言葉はオルノーコという戯曲の二幕二場で主人公オルノーコが口にする有名なセリフだ。夏目漱石の三四郎という小説の中で与次郎が「可愛そうだたあ惚れたってことよ」と訳して廣田先生に「下劣の極みだ!」と叱られるが、まさにぴったりの訳だ。

 どうりで私を誰も哀れんでくれないわけだ。母が口癖のように「一番哀れなのは年老いた女だ」と言っているが、てやんでい!今にきっちりと哀れんでくれる人を探すのだ。

 

  When Harry met Sally (恋人たちの予感)というメグライアンが一番可愛かったときの映画で、12年前に出会ったときは、何ともなかった二人が、その後ニューヨークで何度か再会し、喧嘩をしながら友人関係を続けていた。しかしNew Year’s Eve(おおみそか)にHarry がSally にプロポーズしたときの台詞がいい。

“I love that you’re the last person I want to talk to before I go to sleep at night.”

(僕が夜眠りにつく前に話しかけたい人は君だけだ)というわけです。I love ~と彼女の癖などを羅列したあとで言う決め台詞です。これが究極の愛情を試す気持ちのような気がします。

 

chemistry

chemistry は化学 chemical (化学の) chemical weapons (化学兵器) 

a chemical reaction (化学反応) the chemistry of iron (鉄の化学的性質)など化学に関する言葉の他に、chemistry には面白い意味がある。

 

私は大学生の時に、犬の餌の缶詰の宣伝販売をスーパーマーケットでやるアルバイトをしたことがある。あれが多分犬の缶詰の餌の走りだったように思う。同年代の女子学生と初顔合わせで二人組になってスーパーマーケットで「いかがですか?」と客に宣伝するマネキンというのだろうか?

 

 その日、私は衝撃と言っていいほどの体験をした。パートナーになったその20歳の女性が「本は好きですか?どんな本が?」と訊いてきたのだ。「そうねえ、坂口安吾とカミュが」と答えた私に彼女が「えっホントですか?!私もなんです。誕生日はいつですか?」と矢継ぎ早に訊いてくる。「7月26日だけど」「嘘みたい!私も7月26日生まれです!」と彼女は言った。私はけっこう星占いなどが好きだったから、やはり誕生日が同じだと気質が似ているというのは本当なんだと妙に納得した。まさに

We had good chemistry from day one. (初日から馬があった。相性が合った)というわけだ。

まるで化学反応のように人間の中に起こる感情が相性になるから、こういう意味もchemistryにはあるんだなあ、と実感した。そして彼女久子は生涯の友になった。と言っても卒業してからお互いに故郷に帰ってバタバタしているうちにいつか、疎遠になっていた。

 

 そして25年くらい経ったとき、私の職場の電話が鳴った。インターネットで私の名前を検索して探し出してくれた久子からだった。長い間会えなかったときも、いつも心の中では、あの誕生日が同じだった女の子は、今どう生きているのだろう?と思っていたのはお互いだった。

 

 私の大好きなノンフィクション作家沢木耕太郎氏の講演を40年以上前に聴きに行ったとき、彼は「世の中には偶然というものは決して無い。すべてが必然である」と言っていたことを私も信じる。出逢うべくして出逢う人というものがあると私は思う。

 

 ただ「私たちは共通点がたくさんある」というのは We have a lot in common,

と言うが、chemistry というのは理屈を超えた感情のように思う。

 My chemistry with her is terrible. (彼女とは生理的に、てんで合わない)という表現もある。

そういう人とは、無理をせず付き合わないことだ。

 

movie

 映画大好き人間の私には、映画は kind of life saver (命の恩人のようなもの)である。

映画館には、あまり行かないが、( not a movie goer ) 映画ファンはmovie goer という。これは、レンタルビデオのシステムが出来る前、映画は映画館で見るものという時代に出来た表現なのだろうか?That’s only in the movies.(夢みたいな話だね)という表現もある。

 

 私は、20年以上前に非常に悪性の癌を患った。入院、手術、退院と順調には、いったものの当時大変忙しい仕事をしていたので、退院して4日目から12時間ずつ働かなければならなかった。

帰宅すると、疲れて歩くこともできなかった。朝仕事に行く前に診察券を病院に

出しに行き、採血をしてもらい、また仕事の合間をぬって病院に行き午前中の診察を受け、採血の結果を見た医者に今日は抗がん剤を受けることができるかを判断してもらう。許可が出ると午後にまた仕事の合間をぬって抗がん剤の点滴を受けに病院に行った。

 

 月刊「がん」という雑誌を1年間購読しながら、病気と冷静に向き合おうとしていたが、ふと病気と対峙することは、当たり前だが気が滅入ることだと自覚した。そこで思い出したのが、名画「道」の監督のフェデリコ・フェリーニが言った言葉だ。

「映画を見に行くことは、母親の子宮に戻るようなものだ。真っ暗闇の中でじっと座り新しい人生が始まるのを待つ」”Going to the movies is like going back to your mother’s womb: you sit in the dark and wait for a new life to begin.” まあ、英訳すればこんな感じか?

 

 まず、大好きな「道」から見始めた。古い映画なので白黒なのだが、私は、この映画の主役であるジェルソミーナという、少し頭の弱い、変な顔とからかわれる女性が好きだ。粗野で荒くれ者のザンパンという大道芸人の大男に買われて自分も拙い芸をしながら、泣き泣きついて歩く。ある夜たまたま一緒になったサーカスの道化キジルシにジェルソミーナは、「自分は誰の役にも立っていない。生きているのが辛い。死んだほうがましだ」と泣き言をいう。すると、その道化は足元の小石を拾い「この世には、何かの役に立っていないものなんか、1つも無いんだよ。たとえば、この小石だって役に立っている。空の星だってそう」と言って励ます。このシーンが一番好きだ。

このジェルソミーナ役はフェデリコ・フェリーニの奥さんらしい。

 

 毎晩、文字通り死ぬ程の疲れでも、睡眠時間を削ってでも私は2時間くらい映画を見て、何人もの他人の人生を生きた。そのおかげで、転移しやすいと医者に言われた癌が完治した。

 これは、実話だが、やはり癌を宣告された男の人がホテルに何日間か(こも)って、朝から晩までコメデイ映画を見まくって、ホテルから出てきた時には癌が消えていたという。

“That’s only in the movies!” と笑うなかれ。

 

owe

owe(負う・借りている)まさに日本語の負うが英語oweの発音になる。

最近見た映画の中で、母親が息子に “You don’t owe anyone your life.”と言っていた。

「あなたの人生は他の誰のものでもない。あなた自身のものだ」というわけで、「自分の思うとおりに好きに生きなさい」と。

その母親はその息子以外に娘三人、つまり四人こどもを持っていて、夫は将来を嘱望される超エリートエンジニア、給料も申し分なく、何不自由なく暮らしていたが、どうしても今の自分は自分じゃないと言って、夫と離婚し、二流のエンジニアで夫婦の共通の友人の元に行く。彼の傍にいると笑っていられるという。なかなか勇気のいる決断だと思うが、実行できる女性は何割位いるのだろうか?

 

 I owe you one.(恩に着るよ。あなたに借りができた)

Thanks for speaking to the boss for me. I owe you one.(僕のためにボスに話してくれてありがとう。恩に着るよ)

I owe it to my parents to take care of them in their old age.(私には両親の老後の面倒を見る義務がある)

両親や片親の介護のために、介護離職する人たちも多い。親の介護に疲れ果て、暴力をふるったり殺害したりする事件も起きている。気の毒だと思う。もっと社会福祉が充実していれば、防げる事件も多々あるのでは?

 

 現在問題になっているヤングケアラーも、自分しか家族の面倒を見る人がいないと必死に頑張る若者たちが多くいるのだろう。

2012年に自民党が出した憲法改悪草案の第24条にこういう追加文がある。

「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」

これは現行憲法にはなく、社会保障に消費税を当てていると言いながら、大企業の優遇税制に国民の血税を当てている現政権の重大な罪である。

 

 自分の大切な人生をもっと笑って暮らせるために、若者たちがもっと明るい未来を夢見ることができるように、正しい政治が行われるように切に望んでやまない。

The politicians owe us decent and happy lives. (政治家は私たちにちゃんとした幸せな生活を与える義務がある)

その義務を家族にだけ押し付けようとする下心見え見えの自民党憲法草案は阻止しなければいけない。

 

 face

  face (顔)は、ほとんどの人が知っている英語。

2023年11月8日私は宮城県塩釜市立塩竈図書館において、横山秀夫氏の講演、といっても文芸評論家の池上冬樹氏との対談「ミステリー作家の秘密」を聴く機会があった。それは、一人が語る講演を聴くというより、和やかな雑談といってもいいような、作家の本心が垣間見られる楽しい時間を共有しているような、素敵な時間だった。

 

 昔流行ったカウチポテトという言葉を覚えていらっしゃる方もおありだろうか?

カウチ(ソファーにくつろいで、軽い夕食を食べたり、スナック菓子を食べながら、映画やテレビドラマを見る人を指す言葉。私はそれの何十倍もソファー族、いま中国では”寝そべり族“と呼ぶらしいが、私はそれである。外国人の友人には “I’m glued to the TV.”(glue は(のり)、つまりテレビに糊付け釘付け)ということになる。それが一日中だから手に負えない。

 

 話が遠回りになったが、サスペンスドラマ大好き人間の私は、週のうち、半分以上は横山秀夫氏の原作ドラマを見ていることになる。そう、「64(ロクヨン)」や「第三の時効」や「半落ち」など、警察小説で数々の賞をとり、海外にも何冊も翻訳されている超売れっ子作家だ。その本格的推理作家になる前の7年間は漫画の原作を書かれていた時期があり、その時の感想が「漫画は、どんなに傑作が出来上がっても、その上を目指させられる。これでいいということがない」と。これは経験者のみが語れる言葉だ。ま、どの世界にも共通することではあるけれど。

 

 というわけで、次々と傑作を生み出すということは、眠る暇が無いということだ。横山氏も1日2時間しか睡眠を取れない時期がずいぶんあったらしい。午前中1時間、午後1時間。超人的だ。夜中に執筆していると頭の上をピヨピヨと何かが飛び回り、30ページ前のあの部分は直したほうが良いとか、彼に囁くらしい。いわばトランス状態だと。そんな極限状態まで頑張れる人間は、そんなにいないだろう。偉業を成し遂げる人は違う!

 

 ところで横山氏の「顔」という小説も有名だ。ここまで、引っ張ってきて、ああ、だから今日のお題は “face”か?と思ってください。

the face of the building (ビルの正面)make a face (しかめっ面をする)

How can you have the face to ask me for such a thing?(よくもまあ、ずうずうしく私にそんなことを頼めるもんだな)など、辞書を引いてみると、易しい単語ほどたくさん意味があるので面白い。

face には動詞もある。

Let’s face it! (嫌な現実、事実を認めよう) など直面するという意味がある。面白いのは

face the music という表現。(失敗などの責任をとる。進んで難局に当たる)がある。

友人と、なぜmusic(ミュージック )が難局なんだろう?と話したことがある。

友人は音符は自分にとって、ちんぷんかんぷんだからかな?と言った。

 というわけで、現在私は横山氏原作の「顔」というドラマの再放送を見ている。20年前の作品だ。仲間由紀恵やオダギリ・ジョーが若々しくて何とも美しい!

 

identity

 これは、日本語に非常に訳しにくい、強いて言えば“身元・正体”と辞書に載っている、“自分が自分である証明、口語で身分証明書”とでも言おうか。

昔はprivacyという語にぴったりの日本語が、なかなかピンと来ない、まあ、“私的自由”とでも訳そうか、という時代もあった。今では“アイデンティティー” “プライバシー”などと言ったほうが、ピンとくる年代の人々が多いと思う。

 

 このidentityで一番思い出す映画がある。この〈自分とは、このような人間であるという明確な存在意識〉を探し求め始めた、リタという人の良いヘア・ドレッサーと、大学の社会人講座で文学を教えている、マイケル・ケインが演じた酔いどれ大学教授の話である。

 

 ある日、私は席が近かった若いアメリカ人の同僚と、空き時間にビデオレンタルショップに抜け出して行った。その時彼が、これはオススメ、ぜひ見るといいと言って手にとったのが

「リタと大学教授」という映画だった。ジャケットというか、表紙がにやけたマイケル・ケインと若い女優の写真である。とっさに、え~エロっぽい、趣味悪いなあ、と同僚のセンスを疑ったが、彼は「これは、オーストラリアの大学で教材に使われていた」と言ったのだ。

 

 しかし、その夜家に帰って〈リタと大学教授〉を見た私は、すっかりこの映画のファンになった。

主人公のリタが、早く子どもを作って平和な家庭を作ろうと強く求める夫の傍ら、自分が今のままでいいのだろうか?と煩悶している。夫に避妊ピルが見つかり、ひと悶着あったりしているが、自分探しの旅(自己啓発)を求めて大学の社会人文学講座を訪ねる。そこで出会うのが、この酔いどれ大学教授、やる気をすっかり失っている

中年というか、老年に近い教授である。

まあ、ネタバレになるが、リタは必死にこの大学教授を励まし、前向きにしながら、自分のアイデンティティーを見つけていくのだった。

原題が“Educating Rita”(リタを教育すること)。これは同名の舞台がイギリスで長く続いていたらしい。映画の最後の方でリタが言う。「自己啓発というのは、自身の選択の可能性を広げることなのね」と。

 

 この映画を、いたく気に入った私は、当時尊敬していた婦人(友人の母)にも薦めた。

彼女は長い間夫の愛人問題で悩んでいたが、この映画をやはりとても気に入ってくれた。

意気投合した私たちは、いつかお茶しようね、とその日を楽しみにしていたが、私が仕事の忙しさにかまけていて実現しないまま、彼女は病気で他界してしまった。

 いつもいつも私は物事を先延ばしにしてしまう、ぐうたら人間である。後悔ばかりしている。

そんなとき、いつもこのことわざを思い出す。

 One of these days is none of these days. (いつか、そのうちという日は無い)

 

 

 

 long

  一番頭に浮かぶ意味は、形容詞の(長い)だと思うが、実はlong には動詞がある。

自動詞で、(強く望む)という意味があり、for をつけて long for で(~を切望する)という意味になる。40年くらい前だったか、Dean Martin ディーン・マーティンというアメリカの歌手が、My heart cries for you という題名の歌をヒットさせた。

 

 My heart cries for you , sighs for you, dies for you と韻を踏み、cry for~(~を泣きたいほど切望する) sigh for ~( ~を想い焦がれる sigh は、ため息をつくという動詞) die for~~を死ぬほど求める)つまり「あなたに恋焦がれている」と畳み掛けて歌っているのだ。そして、それに続く詞が

And my arms long for you. Please come back to me. (そして私の腕はあなたを切望している。つまりあなたをこの腕に抱きしめたい。僕のところに戻ってきてくれ、と懇願している歌だ。

 

 恋に夢中な時は、男も女も、まさにこの歌の気持ちだと思う。

しかし、今年流行った“蛙化現象”という言葉の意味を聞くと、何かのきっかけで、す~っと気持ちが冷めることを言うのだという。好きだ好きだと思っている気持ちが、あっという間に冷めるということを聞くと、おちおち、または安心して恋愛などしていられないのでは?と老婆心ながら思う。それでなくとも、好きだと思いつめて相手を追うとストーカーと認定されてしまう恐れもある。もちろん本物のストーカーは怖いが、今の時代は、セクハラとすぐ訴えられる危惧もある。特に男性は恋愛に臆病にならざるを得ないのでは?

 

 私が今、long for を使うなら、 I long for world peace. 世界平和を切望する。今、ガザでは9000人近い人が亡くなり、子どもは4000人近く亡くなった。戦争では誰も幸せにはならないのに。

最近はガザのニュースばかり耳にするが、ウクライナだってそうだ。小さな男の子が「僕たちは何も悪いことをしていないのに!」と泣きながら訴えていた。心が張り裂ける思いで聞く。

 

 今、平和憲法を改悪し、憲法九条を変更し、日本も戦争ができる国にしようと岸田内閣が躍起となっている。世界で唯一の被爆国である日本が、宝物にしてきた恒久平和をうたった九条を改悪し、日本を世界第三位の軍事大国に押し上げようと、敵基地攻撃能力などというものを配備した。逆に狙われて、戦争に突入する危険性を自ら招いている混迷の日本。

 

カザルスが作曲したカタロニア民謡“鳥の歌”を聴きながら、これを書いている。

カザルスは、カタロニアの鳥は(peace)ピースピースと鳴くと言った。

 鳥が()くピースピースとウクライナ ガザの空にも焼け焦げし木にも

 

 

person

  person ()はたいてい一人の人をさし、複数形はpeople を使う。

ジェンダー平等が日本では、ここ数年で盛んに提唱されるようになった気がするが、英語においては、かなり昔から man () のつく言葉 chairman (議長)などはchairperson に、salesman(セールスマン)はsalespersonに、などと性差がない言葉が増えてきている。

 

 personの面白い使い方に, Are you a cat person or a dog person? という使い方がある。

「あなたは猫派ですか、それとも犬派ですか?」

 つまり好きなものにperson をつければ、~が好きな人になるわけである。

 morning person (朝型人間) night person (夜型人間) coffee person (コーヒー大好き)、book person (本好き) などと….

 

 私は猫も犬も大好きだけれど、もっぱら猫だけを飼ってきた。幼い頃に愛犬をジステンバーという病気で亡くしてから、その思い出がトラウマになっているから。我が家が現在、公園の隣に位置しているせいもあり、猫を捨てて行く人もあり、一時期は我が家に5匹の猫がいた。

 

 というわけで近所の野良猫の被害(庭に糞とかおしっことか)も我が家の猫ちゃんたちのせいにされ、バッシングがすごかった。ポストに脅迫状は入っているは、留守電に「首に鈴つけている猫は、お宅のだろう、迷惑してるぞ!」とか。ちなみに我が家に鈴をつけている猫などいなかった。しかし留守電の人は名乗っていないので、弁解のしようがない。友人は「近所の人がゴミを捨てに行くとか、あなたの家の前を通る時に、猫のトイレを道端に持ち出して『いやあ、我が家の猫は立派なウンチをするでしょう』と割り箸でつまんで自慢して見せたらいいじゃないの」なんてアドヴァイスをくれたが、とうに私の心は病んでいた。

 

 ジジという真っ黒な猫が特に外に出たがったので、首にリードをつけて散歩してみたが、犬と違って猫は、そんな散歩はしない。とても嫌がるので、とうとう田舎の母が飼い猫を亡くして悲しがっていたので、田舎ならジジも自由に走りまわれて嬉しいだろうと車に乗せて連れて行ってしまった。後に逃げ出して行方不明になったと母から電話で聞き、私は毎日くよくよ悩んだ。そして癌になった。ペットロスで病気になる人も多いと聞く。ジョイという白い美猫が死んだ時には、私は心筋梗塞のようになり苦しんだ。

 不謹慎な言い方かもしれないが、人間が死んだあとは、あんな嫌なこともされた、深く傷つけられたなどと悲しみの引き算ができる。しかしペットには、それがない。爪を研がれ、壁をざりざりにされたとか、おしっこの粗相をされたなどというのは、悪意でやったわけではないのだから。

 ペットロスで息も絶え絶えのときに私は1冊の本によって救われた。「ペットたちは死後も生きている」というハロルド・シャープという人が書いた本である。

 

 もしペットロスで苦しんでいる人がいたらぜひお薦めした位本である。