


今日8月15日を、「盂蘭盆会」と見るか「終戦記念日」と見るか、意見の分かれるところでしょう。
国の為、命を捧げた多くの英霊や不幸にして散った多くの国民の御霊を思い出すには欠かせない日です。
私の写すデジタルカメラに、良くオーブが写るのは偶然とは思えません。
先日の長岡花火、この日は62年前の長岡空襲の犠牲者の御霊を慰め思い出す為に始められた行事だと聞いています。
長岡市のホームページから、長岡空襲の様子を抜粋します。 長岡空襲について すさまじい長岡空襲 昭和20年(1945)7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。 その11日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。 B29は一機また一機と焼夷弾(しょういだん)を投下しました。すきまなく徹底的に攻撃するじゅうたん爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,470人を超える尊(とうと)い生命が失われました。 投下されたM69収束(しゅうそく)焼夷弾(しょういだん)は925トン、163,000発余りの焼夷弾子弾(しょういだんしだん)が文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。 長岡空襲による被害状況 現在の人口 (H18.4.1現在)282,495人 罹災時の人口 (昭和20年7月)74,508人 空襲開始時刻 昭和20年8月1日午後10時30分ころ 空襲終了時刻 昭和20年8月2日午前0時10分ころ 爆撃機の数 125機 投下爆撃量 925トン 死 者 数 1,470余人 罹災戸数 11,986戸
アメリカ軍は周到な情報収集の後、何処に何が有るか周知の上で、
真夜中、町の人が逃げられないよう長岡の周囲から焼夷弾攻撃を開始し、絨毯爆撃をしたそうです。
捕虜収容所や、鉄道設備は攻撃の対象から外されていたそうです。
それが戦争です、綺麗ごとでは済まされない事実です。


不幸にして犠牲になった、その御霊を慰める為の花火に沢山のオーブが出ていても不思議ではありません。
花火の写真としては出来が悪い為、一度は没にした写真ですが、
上の記事を頭に入れて写真を良く見てください。


怖がらず、角度を変えて見てください、たくさん大小の丸いオーブが見えるはずです。合掌。