「信長の棺」昨夜のテレビ番組を見た。
縦糸の歴史認識と謎の集団として横糸の「山の民」が絡み合わされていた構成に興味津々で見入った。
早速買い込んできた同名の本はこれから時間を掛けて読むつもりだが、
この時代劇のドラマを単なる娯楽番組と見た人は多いはずであろう。
番組制作者や、[信長の棺の作家、加藤 廣]さんの思惑とは別に
「山の民」こそ番組の核となるべき問題で現代の差別に繋がっている問題があると私は見た。
「山の民に」ついては、昨日の私のブログを参照して頂ければある程度判るはずです。
「山の民は」大和朝廷以前の先住民族を含み、現代まで連綿と続いている。
日本の施政者に従わざる民であった「山の民」はハイテク集団でもあり、
「いなり」と言う言葉は、稲荷=医なり=異なり=衣なり=稲成=鋳なり、などとして、
武力を持って日本を支配した階層は、あるいは利用しあるいは弾圧して、明治の曙を迎えた。
時代の流れの中で、一部の者を除き河原者として蔑まれ、士農工商の下の階層として犬畜生と同類に扱われ、
その住まいがある地域は都市間を繋ぐ一里塚の距離からも除外され無視されてきた。
そんな中にあっても、「山の民」が持つハイテク技術は施政者にとっては魅力たっぷりであった。
中でも、金採掘に代表される鉱山技術や武器を作る冶金技術、医療技術や機織りなど、
特に金になる機織り技術は魅力たっぷりである。
その技術を生かし、体制深く浸透していった勢力はあるいは武士の身分を得た者もおり、
大商人の身分となった者、時の政治を牛耳る者も出ているが、
大多数の「山の民」の子孫は下層民として明治政府の壬申戸籍にも記載されていたという。
歴史を振り返ると明智光秀が攻略した丹波篠山の八上城は、信長が攻略を命じた城である。
その後山の民の一族・秦氏=波多野氏の流れを汲む藤堂高虎が
徳川家康の命を受け丹波篠山城の縄張りをしたと聞いている。
落城した子孫たちは下層民として明治まで続き、似た境遇の人達が日本中に大勢いる。
本能寺で横死を遂げた信長の遺体がなかったのも、本能寺に抜け穴があったという設定に頷ける。
「山の民」のことは、「見ざる言わざる聞かざる」が不文律で日光東照宮、左甚五郎の三猿彫刻に尽きる。
興味有るブロガーの方はご自分で調べてみて下さい。