平成4年父が93歳で他界した。
葬儀の手順を決める段階で、県歯科医師会にこの旨連絡を入れたら、担当者から折り返し指示が来た。
式場での席順並びに焼香順はこちらに一任下さい、と言われ納得。
数十人の歯科医師会からの出席があるため、そのように心得て下さいとの返事。ドギマギした。
喪主は何方ですかと聞かれ次男の私と答えたら、何故長男が出来ないかと異議ありの意見。
家庭の事情とのみ答へ不承不承ながら納得して貰った。
葬儀終了の挨拶で、亡き父の人となりについて話を始めた。
姉達からは恥ずかしくない挨拶をするように前もって釘を刺されている。
下書きを考える暇もなく、型通りの挨拶の後、ありのままを話すのが一番と、
亡き父と子供の関係を話す。
父は8人も子供を授かりながら、誰一人跡を継ぐ者がいなかった。
5人目に兄が生まれるまでは、長女を跡取りに育てる腹だったそうだが、
5人目に生まれた子供が待望の男の子。
そこから運命の歯車が狂い始めた。
父の期待を一心に受けて育った兄は、期待に反し、幼い時分に40度を超す「猩紅熱?」で
生死を彷徨ったという。
その為か優しい凡人のまま成長し、父の落胆ぶりは相当のものであったようだ。
父は男3人が小学一年に入学するごとに、30僂涼歇椶領△
梨下の冠、瓜田の靴。自ら身命を惜しまず。と漢文で書き。この二文の意味を教えてくれた。
先生はビツクリ仰天していたが、子供にはチンプンカンプン。
父の真意が伝わったのはずっと後の事である。
父と兄とは意見が合わず、兄は高校を中退し独立。生涯独身を貫き横死。
私も父との対立から、進級すれすれの成績しか取らない。反骨を貫いた。
それが良かったか悪かったかは世間が判断してくれる。
今日こんな話が出来るまで育ったのは、お父さんとお母さんのお陰です。と話を締め括った。
私に子供が出来、育て上げる環境の中で、父母の有り難さがわかった。
晩年の父は、高齢から来る「バセトゥシ病?」からか意識の混濁が起きていた。
あれほど聡明な父にして然りである。別れて暮らす不自然さが悔やまれたが、
如何せん自分が蒔いた種である。生きる限り思い出の中で親孝行するしかない。
我が子が果たしてわかる時が来るのやら・・・