コリン・デクスターによるモース主任警部シリーズ第13作最終巻『悔恨の日(1999)早川書房』その山田正紀のあとがきに、そもそもモース警部シリーズにあっては、結末の意外性にではなしに、倫理の華麗な展開にこそ重点がおかれてあって、かりに小説に終わりが不要というのであれば、その論理は永遠に転がって、ついにやむことがないはずなのだ。
多分、デクスターは自分の小説に結末は要らないと思っているのではないだろうか。このとりとめのなさは人生そのものに似ていて、結末はあるにはあるが、単に延々と繰り返されたエピソードにすぎない。したがって意外な結末が期待されるということもなければ、総じて平板な印象が残される。
コリン・デクスター:悔恨の日(1999)早川書房
モース警部の繊細にして不遜、天才にして無能、好色にして純情、博識にして無知、大酒飲みで、吝嗇で、孤独で。…多分、本国の読者は、モース警部に自分の姿を重ねあわせていたからこそ、このシリーズが終わることにあれほど(読者の抗議が激しく作者は会見を開かねばならなかった)反発した。
上記のように、山田正紀はモース主任警部シリーズの本質をよく伝えていて(勝手にダイジェストさせていただいた)このあとがき以外に付け加えるべきことがあまり見当たらない。ただ、ホームズやポアロよりも愛されたともいわれるモース主任警部シリーズのラストは、これ以外になかったのかなぁ…
モース主任警部最終巻に寄せて
沈黙は他人ひとの夢のなかを歩むごと疚しくもつむがれていく
でこぼこの道は終わりをまえに荷車には揺れ粉々に砕けてしまい