末弘ヒロ子。美人コンテスト顛末記 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信

鹿鳴館の華 陸奥亮子

 

明治40年、米シカゴの新聞社トリビューン社から美人コンテンストの世界大会への参加を打診され、日本でも全国から自薦他薦で写真の公募が行われたのは有名な話で、まぁそれ以前にもコンテストがなくはなかったが、芸妓さんを対象にしたものがほとんどで、一般女性の公募はやはり珍しく規模も大きかった。

 

この時優勝したのは学習院の学生だった末弘ヒロ子さんで、結果放校になったというのもよく知られている。「学生の分際でちゃらちゃらしおって」というところなのだろうが、美しいというのも罪なものみたいな雰囲気も。また、同窓生の嫉視も激しく、これでは勉学に身が入らないゆえ退学させられたとも。

 

全国1等 末弘ヒロ子

 

全国8等 鷲見久枝子 豊田ワカ子(山形)

 

ともあれ、本人が知らぬうちに義兄が応募したにもかかわらず、学習院から他に数人の応募があったのに処分されたのは1等の末弘さんだけというのは納得がいかないが、多分に見せしめ的な懲罰だったのかも。ただ、この時の学習院院長乃木希典は罪滅ぼしの気持ちからか良家への見合いを仲介している。

 

後日譚になるが、この末弘さんはめでたくご結婚されて(確か)3女を得て、うち一人が嫁いだ先が正田家、そこには後に上皇后となられる正田美智子様のご実家ということで、なんだか美人づくしみたいな話です。これは井上章一『美人コンテンスト百年史』に詳しい。面白い本です。

 

井上章一:美人コンテンスト百年史(1992)新潮社  

ポーラ文化研究所:幕末明治美人帖(2002)人物往来社

 

イラストは外交官陸奥宗光の妻・亮子さん。日本近代屈指の才媛といってもいいのでしょう〝鹿鳴館の華〟〝ワシントン社交界の華〟とも呼ばれました。