Picture diary.104 カラスの親指
ネット配信で観た映画「カラスの親指(2012)」原作者・道尾秀介のストーリー・テリングに感心して以来道尾のファンになった。正月休みに原作を読んだところ結末は若干違っていて、小説と映像の違いを(少しだけ)考えさせられた。映画は(大好きな)阿部ちゃんに能年礼奈(のん)は抑え気味、石原さとみの自堕落パープリンな演技の過剰感が面白い。
道尾秀介:カラスの親指(2008)講談社
映画ポスター(ネット画像)と単行本表紙
道尾秀介は1975年生まれということは(私とは)20歳ほども若いのね。展開構成ともにセンスがいいというか、ヴァランスがいいというか。世代的な成熟とすると多少の嫉妬心も湧いてくる。オレら世代の作家はもっと泥臭いものね。こちらは映像→原作本の順番だったのだが、映像は映像なりに、小説は小説なりの面白さがありお勧めできる。
デボラ・ソロモン:ジョゼフ・コーネル(2011)白水社
村山知義とクルト・シュヴィッタース(2005)水声社
Kurt Schwitters展図録(1983)西武美術館
コラージュやオブジェ(ボックス・アート)などは20世紀初頭にシュールレアリストたちが〝非芸術的な行為〟として熱中したが、さかのぼればダダイズムを標榜したマルセル・デュシャンやクルト・シュヴィッタースたちがありふれた日用品を取り上げ芸術と命名することで「レディメイド」の嚆矢となった(デボラ・ソロモン)ものだった。
ドイツでは、どちらかといえば破壊的な運動だったコラージュ&オブジェだったが、アメリカに渡りジョゼフ・コーネルがボックス・アートとして展開すると、なぜか内省的で詩的な表現に転換してしまった。これはコーネルの生まれもったテンペラメントによるものだったが、あるいはそれゆえに現在でも深い支持を得ている。そして
joseph cornell(ネット画像より)
絵画・美術からARTへの転換を終えた(椹木野衣:後美術論)現在になっても、相変わらず「レディメイド」的な表現が好まれるのは、わが国の情緒的な風土に適したせいなのか。あるいは海外でも同様なのか知りたいところ。もっとも近年、表現もデジタル作業によることが多く〝コピペ〟作業などはコラージュと同様な行為に思えたりする。これは私見ながら、この辺りに「レディメイド」健在の鍵があるように思えたりする。
後美術論に触れて:月刊 myskip掲載(2017.04)